東京高等裁判所 昭和27年(行ナ)36号 判決 1954年11月09日
原告 横田隼雄 外七名
訴訟代理人 松永芳市 外一六名
被告 中央選挙管理委員会委員長 松村真一郎
訴訟代理人 坂千秋 外二名
主文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一原告らの請求の趣旨及び請求の原因
原告ら訴訟代理人は、「昭和二十七年十月一日に行われた最高裁判所裁判官国民審査は無効である。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として次のとおり陳述した。
一 昭和二十七年十月一日最高裁判所の裁判官谷村唯一郎外四名に対する国民審査が行われたが、被告は、右審査に関する事務を管理した中央選挙管理会の委員長であり、原告らはいずれもその審査人である。
二 右審査は、最高裁判所裁判官国民審査法(以下単に審査法という。)に基いてその定めるところの方法を以て行われた。すなわち、審査の投票は、同日行われた衆議院議員総選挙(以下単に総選挙という。)の投票所において、その投票と同時にこれを行い(同法第十三条)、その投票用紙には、審査に付される五名の裁判官の氏名が連記され、その各氏名の上に×の記号を記載する欄を設けてあつたが、それ以外の欄は設けてなく(同法第十四条)、審査人は投票所において、罷免を可とする裁判官については、右投票用紙の当該裁判官に対する右記載欄に自ら×の記号を記載し、罷免を可としない裁判官については、右投票用紙の当該裁判官に対する右記載欄に何らの記載をしないで、これを投票するという方法を用い(同法第十五条第十六条)、審査の投票で×の記号以外の事項を記載したものは、すべてこれを無効とした(同法第二十二条)。そして全有効投票はこれを罷免を可とする投票と罷免を可としない投票の二種類に分つこととし(同法第三十二条)、かくして行われた投票の結果を各審査分会から審査長に報告し、審査長は、昭和二十七年十月十一日午後三時その指定した東京都千代田区霞ケ関人事院ビルヂング内自治庁長官室で審査会を開き、右基準に従つてこれを調査した結果、審査に付された五名の裁判官はすべて罷免を可とされないことに決定し、その旨中央選挙管理会に報告した。
三 しかしながら、右審査は、左記理由により無効である。すなわち
(その一)(審査法は憲法に違反する無効のものである。従つて同法に従つて行われた右審査は無効のものである。
審査法は最高裁判所の裁判官の任命の適否を問うものとして規定すべきであるにかかわらず、解職投票を規定したのは憲法第七十九条第二項に反し全体として無効であるのみならず、審査法に定める投票方法に関する諸規定は憲法第十三条、第十五条、第十九条、第二十一条に反する無効のものであり、従つてこれに基いて行われた前記審査は当然無効である。
(一) (審査は任命の適否の事後審査である。)
最高裁判所の裁判官の国民審査は、憲法第七十九条第二項の定めるところであつて、その対象は天皇又は内閣によつてなされた最高裁判所の裁判官の任命の適否であり、その本質は、右任命に対する国民の事後審査であり、裁判官任命手続の一環をなすものである。なる程、最高裁判所の長たる裁判官は天皇が内閣の指名に基いてこれを任命し(憲法第六条第二項)、その他の裁判官は内閣でこれを任命する(憲法第七十九条第一項)。しかしながら、最高裁判所は、わが憲法上、国会及び内閣とならんで、国政処理の最高機関であつて、いわゆる違憲立法審査権を有し(憲法第八十一条)、憲法の条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部はその効力を有しないこととされている(憲法第九十八条第一項)。従つてかかる地位職責を有する最高裁判所の裁判官の任命が直接、間接に主権者たる国民の意思に基いてなさるべきこと並びにその手続が憲法自体において定めらるべきことは当然の要請であつて、憲法は、右要請に基き、一面最高裁判所の裁判官の人選を内閣の自由に委すと同時に、他面第七十九条において右任命に関する国民審査の規定を設け、成年者による普通選挙により、天皇又は内閣による最高裁判所の裁判官の任命の適否を審査することとし、審査の結果、天皇又は内閣の任命に対し、投票者の多数が反対したときは、当該裁判官は、任命を信任されなかつたものとして罷免され、そうでないときは、当該裁判官は、任命を信任されたものとして右審査の時から十年間その地位が確定されるものとしたのであつて、かくしてこそ直接民主主義の要請は達成せられるものというべく、同条第三項に罷免という語を用いたのは、任命を信任されなかつた裁判官が将来に向つて職を失うことを明らかにしたにすぎないのであつて、これがため国民審査を解職制度であるということはできないのである。すなわち、憲法第七十九条の規定は、国会議員に関する憲法第四十三条の規定及び内閣総理大臣に関する同法第六十七条の規定と同じく、最高裁判所の裁判官の任命に関する規定であつて、国民審査は、最高裁判所の裁判官の任命手続の一環として天皇又は内閣の任命に対する国民の事後審査であり、この趣旨は、憲法審議の際における提案理由の説明その他の論議に徴して明瞭であるばかりでなく、「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、」とある憲法第七十九条第二項の字句自体からみても明らかなところであり、仮りに裁判官弾劾制度とならんで任命せられた裁判官のうち不適当な者を罷免させる趣旨を含んでいるとしても、それはどこまでも附随的第二義的であつて、その本質は主権者たる国民による裁判官任命の事後審査であることは、一点疑いをいれないところである。
国民審査の本質、対象にして右の如くなる以上、その投票は、常に任命に対する信任投票の形式を以てなさるべきであつて、少なくとも任命を可とするか罷免を可とするかの形式を以てなさるべきであり、従つて審査法は、この建前を以て規定さるべきであるにかかわらず、解職投票を規定したのは、憲法第七十九条に反するものであつて、審査法は全体として無効である。
(二) (審査法は投票強制を規定する。)
審査法第十二条第二項は衆議院議員の選挙における投票立会人は、審査における投票立会人となるものとする旨規定し、同第十三条は、審査の投票は総選挙の投票所において、その投票と同時にこれを行う旨規定している。これは、総選挙の投票のため投票に赴いた者に対し、その好むと好まざるとにかかわらず国民審査の投票をなすべきことを強制するものであつて、憲法第十三条によつて保障せられた身体の自由、すなわち国民審査に際しその投票所に出頭すると否との自由及び投票すると否との自由を侵害するものである。憲法第七十九条第二項は総選挙の際国民の審査に付する旨いつているが、必ずしもその施設を利用しその投票と同時に国民審査の投票をなすべきことをいつていない。同条項が「際」というふくみの多い文字を使用し「同時」という語を使用していないことに留意すべきである。従つて審査法第十二条第二項、第十三条は憲法第十三条に反する無効の規定であつて、右法条に則り総選挙の設備機構を利用して国民審査を実施した結果事実問題としても後記のように投票強制又は投票の秘密を侵すような事態を生ずるにいたつたのである。
(三) (投票用紙の様式並びに投票の方式を定める審査法の規定は無効である。)
審査法第十四条は投票用紙の様式について規定し第十五条、第十六条は投票の方式につき、又第二十二条は投票の効力について、それぞれ規定しているが、元来国民審査の投票は信任投票の形式を以て行わるべきものであるから、その投票用紙に罷免を可とする意味の×の記号を記載する欄のみを設けて他の欄を設けていないのは不当であるばかりでなく、仮りに解職投票であるとしても、罷免の可否不明の審査人に対しその意思の発表方法を定めていない点、並びに、罷免を可としない裁判官については投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に何らの記載をしないでこれを投票箱に入れなければならない旨規定している点(審査法第十五条、第十六条)において、許さるべきでない。けだし国民審査は国民が裁判官の罷免の可否についての意思を投票の方法によつて表示すべきものであつて、国民固有の権利である公務員罷免権(憲法第十五条第一項)に基くものであるから、審査の投票にあたつては、罷免の可否につき国民の明白なる意思が表示されることを要するものというべく、ひとり罷免を可とするものばかりでなく、罷免を可としないもの、罷免の可否不明のものについてもそれぞれその意思を明白に表示すべきであつて、少なくとも罷免を可とするものは×印、罷免を可としないものは○印というように可否を明白に表示することを要するものというべく、かくしてこそ投票の本質にもかなうのである。投票用紙の×の記号を記載すべき欄に何らの記載をしないで投函したからといつて、白紙は依然として白紙にすぎず、何らの意思を表示したことにならないのである。しかるに審査法がこの理を弁えず、ひとり罷免を可とするもののみについて積極的表示方法を定め、その他についてはこれを定めず、罷免を可としないものについて無記載の投票方式を採用したのは、ひつ竟投票の本質をあやまり、国民の公務員罷免権の行使を不当に制限したものに外ならないばかりでなく、罷免を可としないものについては、投票用紙に何らの記載をすることを要しないのであるから、仔細に投票所における審査人の行動を観察するときは、その記載台に立ち寄ると否とにより、その審査人が罷免の可否いずれの投票をなしたかを明瞭に看取することを得べく、かかる投票方式の採用は憲法第十五条第四項によつて保障せられた投票の秘密を侵すものというべきである。
更に審査に付される裁判官が二人以上ある場合を考えて見るに、この場合には投票用紙にその氏名が連記されている(審査法第十四条)のにかかわらず、審査法は一部の棄権について何ら定めていないため、一部の裁判官について投票しようと思う者は、他の裁判官について棄権しようと思つてもその方法がないため棄権することができず、その意思に反して投票しなければならないことになるのであつて、しかも罷免の可否を決定する投票の多寡は、審査法第三十二条の規定からもうかがわれるとおり、各裁判官一人一人について決定せらるべきものであるから、かかる投票用紙の様式並びに投票の方式は不当である。
これを要するにこれら投票用紙の様式並びに投票の方式に関する審査法の規定は、或いは投票を強制し、又は投票の秘密を侵し、任命の可否ないし罷免の可否を知らない審査人(かかる審査人が絶対多数を占めている)からその思想及び良心に従つて知らないという意思表示をする自由を奪い、又は棄権によつて黙否権を行使する自由を奪うものであつて、憲法第十五条、第十九条、第二十一条に反する無効のものである。
(四) (罷免の可否不明の審査人の投票)
審査法は審査に付された裁判官について、罷免の可否を決定するにあたり、全有効投票を罷免を可とする投票と罷免を可としない投票の二種類に分つこととし、×の記号のないものはすべて罷免を可としない投票に算入することにした(審査法第三十二条)。これは、審査法が投票の方式について同法第十五条、第十六条のように定めたことによるものであるが、×の記号のないもののうちには、罷免を可としないものの外、裁判官の名前も知らず、審査の何ものであるかも知らず、又は知つていたとしても罷免の事由の有無がわからないため、本来は可否不明の投票をすべきであるがその方法がないため、止むを得ず投票用紙に何らの記載をしないで投票したものもあるのであつて、しかもかかる投票が大多数を占めていたのにかかわらず、これらを一率に罷免を可としない投票に算入することとしたのは、これら投票者の意思を曲げて解釈し、かつ本人の欲しない法律上の効果を付与したものというべく、審査法の右規定は、思想及び良心の自由並びに表現の自由について規定した憲法第十九条、第二十一条に反するものであつて、無効である。
(その二)(今回の国民審査については、事実の上においても次のような無効原因があつた。)
すなわち
(一) (投票強制)
今回の国民審査にあたつては、投票強制が行われた。今回の国民審査は、審査法に基いて、同日行われた総選挙のための機構と設備とを利用して実施せられたのであるが、総選挙の投票所と国民審査の投票所とは同じ場所であつて、その入口も出口も同じであり、且つ順路も一定して戻ることを許さないように設備してあり、右投票所に出頭した有権者(選挙人であり且つ審査人である者)に対しては、係員は、選挙の投票用紙と審査の投票用紙とを一緒に交付し、これが持ち帰りを禁止した結果、有権者は一旦選挙のため投票所に出頭した以上審査の投票をしたくないと思つても投票しなければならない破目となり、又かかる審査人に対し、係員において投票を強いた事例さえあつたのである。
被告は審査の投票用紙の受領拒絶又は返還は自由であるというが、このことについては何ら周知せしめられず、却つて棄権防止が叫ばれていたのであるから、選挙のため投票所に出頭した有権者がこの挙に出ることは思いもよらないところであつて、又投票用紙の同時交付とこれが持ち帰りの禁止は、これを切りはなしてみるときは、或いは投票の強制にならないようであるが、これを投票所の設備と総合して観察するときは、立派な投票強制となることに留意すべきである。
仮りに投票用紙の同時交付の事実がなく、投票所に出頭した有権者に対してまず選挙の投票用紙を交付して投票せしめ、ついで審査の投票用紙を交付して投票するように設備してあつたとしても、投票所が同じ場所であり、その入口出口が同じであつて順路もきまつているとすれば、投票所の入口に足を踏み入れた者は、その意思いかんを問わず、選挙と審査の両方の投票を終らなければ出口に行けないのであるから、投票強制である点において何ら変りなく、これを要するに投票強制の主たる原因は、その投票所の設備にあつたのである。
(二) (投票の秘密の侵害)
今回の国民審査においては、投票の秘密が侵された。
審査法第十五条、第十六条の規定が投票の秘密を侵すものであることは、さきに指摘したとおりであるが、事実の上においても、投票所の設備その他において投票の秘密を防止する方法は何ら講ぜられず、罷免を可とする投票をしようと欲する者以外は、すべて記載台に立ち寄らず、投票用紙に何らの記載をしないでそのまま投票したのである。
(三) (罷免意思の有無を表示しない投票は罷免を可としない投票より除外すべきである。)
今回の国民審査においては、罷免を可としない投票として算入せられた投票中に罷免の意思の有無を表示しない投票が多数あつた。
もとより審査法第十五条、第十六条所定の投票方式をとる以上、投票用紙の記載欄に何らの記載のない投票は一応罷免を可としないものとして推定さるべきであろうが、それでもなお罷免の意思の有無を表示しない投票であることが確認せられるときは右票は罷免を可としない投票から除外さるべきである。そして本訴においてかかる投票が多数存在していたことが明確になつたのであるから、右事実は、本件国民審査の有効無効を判定するにつきしんしやくさるべきである。
以上(一)、(二)、(三)、の事実は、ひとり東京都においてのみならず、全国の各投票所において同様の状況においてなされ、又は共通の現象としてみられたところであるから、これらの事実は、審査の結果に異動を及ぼす虞が多分にあるものというべく、従つて今回の審査は全部無効である。
よつて、原告らは、ここに審査法第三十六条に基き被告を相手方として本件異議の訴訟に及ぶ。
第二被告の答弁及び主張
被告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、答弁として、次のとおり陳述した。
原告らの主張事実中一、二の事実は認める。しかしながら、本件国民審査には、原告らの三において主張しているような無効原因は存在していなかつた。すなわち、
(その一)(審査法は憲法に違反するところはない。)
(一) (審査は解職制度である。)
憲法第七十九条第二項が最高裁判所の裁判官の国民審査について規定していること並びに国民審査法が同条第四項の委任に基いて制定せられたものであり、その内容として解職投票を規定していることは、原告ら所論のとおりであるが、同条所定の国民審査は、天皇又は内閣によつてなされた最高裁判所の裁判官の任命の当否を問うものではなくして、右任命によつて既にその地位にある裁判官に対し将来に向つてこれを罷免するかしないかを国民に問ういわゆる解職の制度であるから、審査法が信任投票を規定しないで解職投票を規定したからといつて、それがため直ちに審査法を全体として憲法に反する無効のものということはできない。
被告が国民審査を以て解職投票の制度であると解する理由は、およそ次のとおりである。
1 憲法上国民審査の本質が解職投票であること(審査の目的が裁判官の罷免いかんにあること)は、憲法第七十九条の文面から明らかである。
2 憲法上裁判官の任命は国民審査の以前において、既に完了しているものと解すべきである。(憲法第六条、第七十九条、第八十条、裁判所法第三十九条、第四十条)。
3 裁判官の地位の保障と民主主義とを調和する上においては、国民審査を以て解職投票と解することが適当である。
4 一般国民をして裁判官たる適任者を選定せしめるということは、事実上甚しく困難にしてほとんど不可能に近い。(特定裁判官に対する罷免投票も容易ではないが、比較的には実行しやすい)。
5 国民審査を以て任命の適否を問うものとすれば、同一裁判官に対する第二回以後の国民審査の性質を理解しがたい。
6 国民審査を解職制度と解してもそれと裁判官の弾劾制度とは固より別箇のものであつて(趣旨を異にし又適用の範囲を異にする。)、その間に何の矛盾もない。
(二) (投票強制を規定していない。)
審査法第十二条及び第十三条の規定は、憲法第七十九条第二項に「衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し」とあることに由来する。憲法は、投票者の側の便宜の点、莫大なる経費の関係、投票設備の人的物的諸要素(投票管理者、投票立会人、投票所等)の都合などを勘案し、総選挙の際においてそれと同時に国民審査の投票を行うを適当とし、その旨を第七十九条第二項に明定した。審査法第十二条、第十三条は、この憲法の趣旨精神をうけ各場合について具体的規定を定めているにすぎない。そして投票立会人の同一、投票所の同一並びに同時投票強制とは必ずしも一致するものでないから、右審査法の規定を目して憲法の条規に反するものということはできない。
(三) (投票の方法に関する審査法の規定は違憲でない。)
国民審査制度の本質がいわゆる解職制度である限り、国民審査の本来の目的は罷免すべき裁判官を選定することであり、その具体的手段としては、積極的に罷免を可とする投票とその他の投票とを区別すればそれで全く十分であつて、別に罷免を必要としない投票の内訳を明白にし又詮索する必要は毛頭存しないのである。それは、いずれにしても、積極的に罷免を可とする投票に属しないことは明らかだからである。これは解職制度の本質から来る当然の結論である。審査法第十四条、第十五条、第十六条、第二十二条の規定は、この見地の下に規定されたのであつて、国民審査の投票用紙に罷免を可とする意味の×の記号を記載する欄のみを設けて他の欄を設けていないからといつて、又罷免を可とする場合の記載方法のみを定めて罷免を可としない場合には何らの記載をしないこととし、更に罷免の可否不明の場合にその意思の表示方法を定めなかつたからといつて、それは単に技術上の問題にすぎず、これがため投票の秘密を侵すこともないのであるから、審査法のこれらの規定を目して憲法の条規に反するものということはできない。
更に原告らは、「審査に付される裁判官が二人以上ある場合、その投票用紙が連記となつており、一部の棄権について方法がないため一部の裁判官について投票しようと思う者は他の裁判官についても投票を強制されることとなる。」と主張するが、この非難はあたらない。たとえ連記であつても、投票は一票である。これは現行法の建前である。従つて、一票中の或部分を特に棄権するというが如きは、条理上認め得ることではない。換言すれば審査法が一票中の或部分の棄権について何ら規定するところがないのは、寧ろ当然のことである。技術的立法論的にいえば、このような場合には、それぞれその投票を別にし、用紙も各別にする方がよいという議論も成り立ち得るが、それは審査方法の巧拙の問題であつてそれだからといつて審査法の投票に関する諸規定を違憲であるということはできない。
(四) (×の記載のない投票を罷免を可としない投票に算入しても違憲でない。)
解職制度の本質上、罷めさせたいという積極的な意思の表示がなければ、その投票が「罷免を可としない投票」とせられるのは、寧ろ当然のことに属し、そこに何の不思議もない。従つて審査法が全有効投票中×の記号の記載のないものをすべて罷免を可としない投票に算入する方法をとつたからといつて、投票者の意思を曲げて解釈しかつ本人の欲しない法律上の効果を付与したもの、憲法の保障する思想及び良心の自由並びに表現の自由を侵すものであるということはできない。
以上のとおりであつて、審査法は、全体としては固より、原告らの挙示する諸規定もまた憲法の条規に反するものではないのであつて、この見解は、すでに昭和二十七年二月二十日最高裁判所大法廷判決並びに昭和二十四年十二月五日東京高等裁判所第四特別部の判決においても容認せられ詳論されているところであつて、この点に関する原告らの主張は理由がない。
(その二)(右審査については事実の上においても無効原因はない。)
(一) 原告ら主張の(その二)(一)の投票強制の事実はこれを否認する。もつとも、今回の国民審査に当たり、総選挙の投票所と国民審査の投票所とが同一場所であつてその出入口が一つであつたことは事実であるが、それは、審査法第十三条が「審査の投票は、衆議院議員総選挙の投票所において、その投票と同時にこれを行う。」と規定したことの当然の結果であつて、寧ろ適当の措置と解すべく、又選挙の投票用紙と審査の投票用紙とを一緒に交付したということは、必ずしも事実ではないのであるが、仮りに一部の投票所においてかかる事実があつたとしても、それは審査法第十三条にかんがみても何ら非議すべき余地のない措置であり、且つ投票用紙の同時交付と投票強制とは別物であつて、投票用紙の受領拒絶又は返還は審査人の自由であつたのであるから、右同時交付の事実があつたからといつて投票強制が行われたということができず、又投票用紙の持ち帰りが禁止さるべきことは、当然のことであつて、ひとり国民審査の場合のみならず、ひろく一般の選挙についても行われているところであつて、その理由は持ち帰りを自由にすることより生ずる弊害を考えれば多言を要せずして明らかであり、又投票用紙公給主義の原則からいつても当然のことである。
要するに、総選挙の投票の設備が総選挙と同時施行の審査の投票(審査法第二条)の設備機構として利用せられた結果、総選挙の投票に引きつづいて国民審査の投票をするように施設せられてあつたことは事実であるが、それはただそれだけのことであつて、そのこと自体又はこれと投票用紙の同時交付及び持ち帰りの禁止と合せ考えてみても、投票の強制などいうべき筋合又は内容のものでなく、各審査人の棄権はその自由意思に任せられており、固より可能であつたのであるからこれを以て審査人より投票の自由を奪つたものであるというが如きは不当の解釈であり、又大袈裟にすぎるものである。全国的に観察すると、昭和二十七年十月一日施行の総選挙と国民審査とにおいて、前者の投票総数は三五、七四九、七二三票であり、後者の投票総数は三五、六六三、九三九票であつて、後者の方が八五、七八四票少ないのである。この事実は、確実に国民審査につき平穏公然に旦つ合法的にその投票を欲しない者は棄権できたことを明白にするものであつて、これによつても、原告らのいうような投票強制の事実のなかつたことは、一点の疑いもない。
(二) 原告ら主張の(その二)(二)の投票の秘密侵害の事実もまた否認する。審査法には、第十八条の外、投票所の人的設備、投票用紙の公給主義、無記名投票制の堅持等多くの投票の秘密保持の規定があるが、今回の国民審査においては、これらの規定は完全に遵守せられており、投票の秘密保持の上において寸毫の遺漏なく、又審査人がその投票意思の内容を秘匿せんと欲する場合には、よくその意思を遂行充足し得るだけの手段が与えられており、その設備に不足はなかつたのである。投票所の設備その他において投票の秘密を防止する手段が講ぜられなかつたとか、又は投票の秘密を侵したというような原告らの非難は全くあたらないのである。
(三) 全有効投票中投票用紙の記載欄に何らの記載をしていない票を罷免を可としない投票に算入したのは事実であるが、かかる票中に罷免の意思の有無を表示しない投票が多数あつたということは否認する。右は事実に反し、原告らの理由なき独断である。
仮りに罷免の可否不明のまま投票したものがあつたとしても、積極的に特定の裁判官を罷免しようと欲する意思をもつていなかつたのであるから、かかる票を罷免を可としない票中に算入しても本人の意思に反することはないのである。
(四) 以上のとおりであつて、今回の国民審査においては、事実の上においても原告ら主張のような無効原因は存在しなかつたのであるが、仮りに一部において無効原因が存在していたとしても、それは審査の結果に何らの影響を及ぼし得るものではなかつたのである。
すなわち今回の国民審査において、審査に付された各裁判官についての審査の結果は次のとおりである。
氏名
罷免を可とする投票
罷免を可としない投票
谷村唯一郎
三、三五五、一六一
三〇、二八二、二八〇
入江俊郎
三、二五三、〇一三
三〇、三八四、五九六
田中耕太郎
二、七三一、六六七
三〇、九〇二、九三一
本村善太郎
三、〇二四、九二八
三〇、六一六、一二六
小林俊三
二、九四三、一九四
三〇、六九七、五〇二
右のいずれの裁判官についてみても、およそ罷免を可とする投票は三百万見当であつて、罷免を可としない投票の一割位にしか当らず、その差は実に二千七百万見当という莫大な数である。その審査の結果に影響を及ぼす虞の全くないことは右の数からみても明らかなところであつて、仮りに東京都全体において投票の強制等のことが行われたとしても東京都における審査人の数は四、〇二四、九五一人であつたのであるから、それでもなお審査の結果に影響なく、裁判所は、審査の全部又は一部の無効の判決をすべき限りでない。
第三証拠
証拠として、
原告ら訴訟代理人は、甲第一号証の一から六まで、同第二号証の一から五まで、同第三号証の一から六まで、同第四号証の一から十一まで、同第五号証から第十号証までを提出し、証人金森徳次郎、宮沢俊義、佐野保房、池田一、井上憲、稲村喜平次、水谷保久、楪米市、河野清造、相沢徳雄、井上定宣及び佐々木正泰の各証言並びに原告横田隼雄、片山繁男の各本人尋問の結果を援用し、
被告訴訟代理人は、甲第一号証の一から六まで、同第二号証の一から五まで、同第八号証の成立は認めるが、その余の甲号各証の成立は知らない、なお原告ら援用の各証人の証言を被告の利益のため援用すると述べた。
理由
原告らの主張の一、二の事実は当事者間に争がない。よつて三の無効原因の有無について、その主張の順序に従い順次審究し検討する。
(その一)(法律上の主張について。)
(一)(国民審査は裁判官の任命の適否についての事後審査か。)
原告らは、まず第一に、最高裁判所裁判官国民審査法は、最高裁判所の裁判官の任命の適否を問うものとして規定すべきであるにかかわらず、解職投票を規定したのは、憲法第七十九条第二項に反し、全体として無効であると主張する。なる程憲法第七十九条第二項は最高裁判所の裁判官の国民審査について規定し、又、審査法は同条第四項に基いて制定せられその内容として解職投票を規定していることは、原告ら所論のとおりであるから、同条所定の国民審査の本質がもし天皇又は内閣による最高裁判所の裁判官の任命の事後審査であり、その対象が右任命の適否を問うものであるとすれば、審査法はまさに違憲立法であつて、憲法第九十八条第一項により全体としてその効力を有しないものといわなければならない。
よつて、先ずこの点について審究する。
(1) (国民審査制度の基本)
公務員を選定し及びこれを罷免することは、国民固有の権利である(憲法第十五条第一項)。これは憲法の宣明する国民主権主義の原則を公務員の選定罷免について表明したものであるが、国民がいかなる公務員を具体的にいかにして直接または間接に選定し罷免するかは憲法並びに憲法に基いて制定される各個の法律によつて定まるのである。例えば、内閣総理大臣は国会の責任において指名する(憲法第六十七条)のであり、会計検査院の検査官は両議院の同意を経て内閣がこれを任命する(憲法第九十条第二項会計検査院法第四条第一項)。又、国民が直接或公務員の選定に関与し得るからといつて常に直接その公務員の罷免に関与し得るものでもなく、この二つの権利は各別に具体化され得るのである。例えば国民は選挙により国会議員を選定し得るが(憲法第四十三条第一項)その罷免を請求することは許されない。
今これを最高裁判所の裁判官についてみるに、憲法は裁判官の地位は選挙によつて成立するものとせず、最高裁判所の長たる裁判官は天皇が内閣の指名に基いてこれを任命し(憲法第六条第二項)、最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は内閣でこれを任命する(憲法第七十九条第二項)こととした。
国民主権主義を徹底せしめて裁判官もまた公選とすることも一つの政策であろうが、裁判官の職務が何であるか、或人は裁判官として適任であるかということは国民大衆に理解しにくい傾向を免れず、わが国の立憲国としての歴史がまだ長くない現代においては殊に左様であつて後(その一(三)1B)にも述べるように国民審査制度さえ国民大衆には十分な理解が欠ける虞がある点を考え、又裁判官の職務の性質を考えると、公選制をとることは必ずしも策の得たるものではない。裁判官を新たに任命する必要が起つた場合でもこれを国民の投票で選出するには多大の労費と日時を要する。又、裁判官の任命又は罷免を国会の意思に依らしめることも司法部を立法部に従属せしめ政治に捲き込ませる危険などもあつて面白くない。そこで憲法は最高裁判所の長たる裁判官は内閣の指名に基いて天皇が、その他の全裁判官は内閣がこれを任命することとしたと思われる。これは裁判官の任命は国の行政権の発動であり「行政権は内閣に属し」(憲法第六十五条)、内閣は行政権の行使について国権の最高機関である国会に対して責任を負う(憲法第六十六条三項)ことに照らし、そして内閣は或人が裁判官という専門職公務員として適任であるかどうかを職務上知る方法を持つている点にかんがみ、一応筋が通つた方法だといえるのである。けれども、内閣はいろいろな事情から故意もしくは錯誤から不適任者を最高裁判所裁判官に任命することがないとも限らず、又或人が任命当時は最高裁判所裁判官として適任と考えられても後になつてその人格言動等が知れ不適任と考えられるようになり、或いは事実上不適任者となることもあろう、内閣ないし国会が彼を適任と考えても国民の多数が社会情勢の変化その他理由のいかんを問わず彼を不適任と考えるかも知れない。ついては公務員を選定罷免する最高権力者たる国民において彼が適任かどうかを審査する機会を設け、もし国民が彼を不適任と決定したならば憲法ないし法律所定の事由があると否とを問わずまた内閣ないし国会もしくは裁判官本人の意思いかんにかかわらず相当の処置をつけることが必要である。こういう趣旨から憲法は国民審査の制度を設け、最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行われる総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とし、その場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときはその裁判官は罷免される(憲法第七十九条第二項・第三項)こととしたのである(後段(一)(2) (ロ)(ハ)(ニ)参照)。
(2) (任命の効力と審査の本質、効果)
しからば、ここにいわゆる「最高裁判所の裁判官の任命を国民の審査に付し」「投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は罷免される」とは、いかなる意味であろうか。
原告らは、「審査の対象となるのは裁判官の任命の適否であり、罷免されるとは当該裁判官が将来に向つてその職を失うことを明らかにしたものである。すなわち、国民審査の制度は、最高裁判所の裁判官の任命手続の一環として認められたものであつて、審査の結果、天皇又は内閣の任命に対し投票者の多数が反対したときは、当該裁判官は、任命を信任されなかつたものとして罷免され、そうでないときは、当該裁判官は、任命を信任されたものとして右審査の時から十年間その地位が確定されるものとしたのである。」と主張する。なる程、憲法第七十九条第二項の「任命を国民の審査に付し」という字句だけからみると、審査の対象となるのは裁判官の任命の適否の点であるかのようにみえ、又、任命後第一回の国民審査はその性質上任命に対する国民の事後審査たる実質を持つものということができるであろう。しかしながら、この問題は右条項の字句だけからでなく、任命の効力と審査の行われる時機と罷免を可とする審査の効果などの関係を総合的に検討して決定せられなければならない。
(イ) 憲法第六条及び第七十九条は最高裁判所の裁判官は天皇又は内閣の任命するところであることを明定し、これらの規定は単純明瞭で何らの制限も条件もついていない。すなわち最高裁判所の裁判官が任命せられてから国民審査によつて罷免せられるまでの間の裁判官の地位については憲法は特別の明文をもつてこれを何らか暫定的の、もしくは未完成の地位でありもし裁判官が審査によつて罷免された場合にはその任命は初めに遡つて効力を失い恰かも裁判官欠格者が裁判官として裁判その他の行為を行つたようなものとしてその行為を無効とするというような趣旨を定めていない。
すなわち憲法は最高裁判所裁判官が審査を受けることなくして本人の願による内閣の辞令、定年、死亡などにより退官した場合にはその在任中の裁判官としての行為は無効のものとせられる趣旨を定めていない。(任命にかような異例の効力を持たせるには特別の明文を要する。)従つて最高裁判所裁判官の任命は下級裁判所の裁判官その他憲法所定の任命による公務員の任命の場合と同じく任命行為によつて任命は完了するのである。最高裁判所裁判官は任命以後憲法、法令、規則に定める職務に関する行為を為しその他最高裁判所裁判官としての地位に基く権利義務を有し、その行為は憲法、法令、規則に定めたとおりの効力を生ずるというのが憲法の趣旨であると解すべきである。何となれば、もしかく解しないならば審査を経ない裁判官の関与によつて成立した最高裁判所の裁判、規則制定、司法行政行為等及びこれらによつて生じた法律関係はこれに関与した裁判官の任命が後日の審査により遡つて無効とせられる場合があり得る結果として安定しないものとなる不合理を承認しなければならないからである。所論のように国民審査は任命手続の一環としての任命の事後審査であり、任命はこの審査があるまでは完了せず審査によつて初めて完了するのだというような趣旨を窺うべき条規は憲法にはない。
(ロ) 憲法第七十九条第二項・第三項は最高裁判所の裁判官の任命は国民の審査に付し、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときはその裁判官は罷免される旨規定している。
これによれば、任命を審査に付するということは、国民をして罷免を可とする投票か、もしくは左様でない投票かをさせることであり、罷免を可とする投票が多数のときは裁判官は罷免されるのであるから、任命を審査に付するとはとりも直さず罷免を可とするかしないかを審査し、罷免を可とするときは裁判官はその審査の当然の法律効果として爾後最高裁判所裁判官たる地位を失うことに外ならない。従つて「任命」を審査に付するとは「今後も任命せられていること」すなわち、「今後の在任」を換言すれば「今後も罷免されないでいること」を審査に付することである。
(ハ) 国民審査は任命後初めて行われる総選挙の際行われるものであるから、任命後初めての国民審査であつても、常に任命直後に行われるものとは限らない。時として任命後数年たつてから行われることもあり、又裁判官が審査を受けることなくして定年、死亡などにより退官することもあり得るのである。任命の適否を問うということならば任命直後に行われてこそ意味あることであるが、憲法は任命後数年を経過した後においても審査が行われるべきものとしている。
(ニ) 国民審査は、任命後初めて行われるものに限らず、その後十年を経るごとに行われる(憲法第七十九条第二項)。もし国民審査が任命の適否を国民に問う制度であるとするならば、二度も三度も国民の審査に付する必要はない。論者或いは第一回の審査により十年間その地位が確定されるのであつて、第二回、第三回の審査により更に十年間ずつその期間が延長されるのであると説くかも知れないが、この説によれば第一回の審査により初めの任命が信任され完了したのに何が故に十年を経過することによつて再び右任命の適否を国民に問う必要が生ずるかの説明がつかない。又、第二回、第三回の審査は、これを再任とみるのが相当であるという説があるかも知れないが、最高裁判所裁判官は天皇又は内閣が任命すること憲法第六条及び第七十九条の明定するところであるから、再任ならば再び天皇又は内閣の任命行為が必要であり、国民の投票だけで任命することはできない。
以上述べたとおりであるから国民審査は決して原告ら主張のような国民の公務員選定権に基く裁判官の任命の適否を国民に問う制度とは解しがたく、寧ろ憲法は、任命後第一回の国民審査がその性質上任命に対する国民の事後の審査たる実質をそなえていることに意義を認めつつも特にこれを国民の公務員選定権に基くものとして規定せず、第二回以後の審査と共に終始一貫してすべてこれを国民の公務員罷免権に基くものとして定めたものと認めるのが相当である。そしてかく定めたからといつて必ずしも不都合不合理とはいえないのである。詳言すれば、国民審査の対象となるのは、任命が適当であつたかどうかという過去の関係ではなくして、或人が最高裁判所の裁判官として引きつづきその職に留まることが適当かどうかという将来の問題である。憲法第七十九条第二項にいわゆる任命を審査に付するとは今後における在任の可否を審査に付するという意味であると解すべきである。審査の結果、投票者の多数が当該裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、その地位を失うが、それまでの彼の地位とそれによつて生じた法律関係の効力には影響がない。憲法第七十九条第三項はこの趣旨を明らかにした規定である。このように、国民審査は、国民が投票により最高裁判所の裁判官を罷免させることのできる制度であつて、一種の解職の制度とみることができ、既に述べたように(その一(一)1)、この制度があるため、国民は、或最高裁判所の裁判官の任命を以て初めから不適当と考えた場合、或いはその後になつて、その人格言動等を知り又は社会情勢の変化によつて不適当と考えるにいたつた場合、その他理由のいかんを問わず、現在その裁判官の罷免を可とすると考えるときはこれを罷免させる機会を得、これによつて最高裁判所の裁判官が国民多数の意思に反して長年その地位に留まることのないことが保障せられるのである。
(3) (裁判官弾劾制度との両立)
裁判官は公の弾劾訴追に基いて国会の弾劾裁判所で罷免の裁判を受けたときは罷免せられるが、この罷免は国家機関が司法的な法定の手続を以て裁判官たるに適しない法定の事由があつたと認められた場合に裁判によつて行うものであつて、最高裁判所及び下級裁判所のすべての裁判官について、総選挙の機会をまたず、任命の直後たると否と、十年の期間を経たると否とを問わず、国民の投票によらず、また国民審査が行われると否とを問わず行うものであつて、弾劾裁判があるから国民審査は要らないとか国民審査があるから弾劾裁判は要らないとかいう関係のものではない。両制度は両立し得るのである。従つて裁判官弾劾制度があるからといつて国民審査が解職制度でないということはできない。
以上説示のとおり、国民審査は、憲法によれば一種の解職制度なのであるから、審査法が解職投票を規定したのは当然であつて、少しも違憲の点なく、審査法が全体として無効であるとの原告らの主張は到底採用することができない。
(二) (審査法は投票強制を規定しない。)
次に原告らは、「審査法第十二条、第十三条の規定は、総選挙の投票のため投票所に赴いた者に対し、その好むと好まざるとにかかわらず国民審査の投票をなすべきことを強制するものであつて、憲法第十三条に反し無効である。」と主張する。
按ずるに憲法第七十九条第二項が国民審査は必ず「衆議院議員総選挙の際」に行うべきものと定めているのは国民審査が成年者による普通投票(国民の投票)の方法によるべきであるがため、審査人にも審査の管理者にも便利でなるだけ少ない時間、労力、費用でやれるように、殊に棄権を少なくして審査をしてできるだけよく審査人の総意を表明せしめるようにしたいから、それには総選挙が最も多く有権者が投票所に集まる絶好の機会だからに外ならない。もつとも憲法が審査を総選挙の際に行うべきものとしているということは必ずしも最も厳密な意味で同一投票所で同時に投票することを要求しているとはいえず、例えば両投票所は互いに隣接する建物にあつても差し支えない。しかし、審査法第十二条、第十三条のように、選挙の管理者をして審査の管理者たらしめ、選挙立会人をして審査立会人たらしめ、又選挙の投票所においてその投票と同時に審査の投票を行うべきものとし、総選挙の人的機構と物的設備とを同時に審査に利用するように立法しても、それは審査人に投票に便利な機会を与えた規定だというに止まり、右規定自体が当然審査の投票をしなければならないように強制していて憲法第十三条に違反しているとまではいえない。審査法のこの規定の下においても審査人は自分の意思とおりの投票をし又は投票しないことの自由を持つている。(このことはその一(三)(5) において述べる)。
よつて原告らの三の(その一)(二)の主張は理由なしとして排斥する。
(三) (投票用紙の様式並びに投票の方式を定めた規定について。)
次に原告らの三の(その一)(三)の主張について判断する。
右主張中国民審査が任命の可否を国民に問う制度であることを前提とする所論の理由のないことは前記(一)の説明により自ら明らかであろう。よつてここには国民審査は解職の制度であることを前提として原告らの主張を吟味することとする。
原告らは、国民審査の投票用紙の方式並びに投票の方式に関する審査法第十四条、第十五条、第十六条、第二十二条の諸規定は、憲法第十五条、第十九条、第二十一条に反する無効のものであると論難する。その主張を要約すれば、
(イ) 罷免の可否不明の審査人に対しその意思の発表方法を定めていないことは、思想及び良心の自由並びに表現の自由を侵すものである。
(ロ) 罷免を可とする裁判官についてのみ積極的表示方法を定め罷免を可としない裁判官とその可否不明なる裁判官とについてはこれを定めず、無記載の投票方式を採用したのは、投票の本質をあやまり、国民の公務員罷免権の行使を不当に制限したものである。
少なくとも罷免を可とするものは×印、罷免を可としないものは○印を記載するというように可否を明白に表示してこそ投票の本質にもかなうのである。
(ハ) 連記投票の方式は投票の強制となる。
の三点に帰着する。そしてそれは相互に関連する事項でもある。
よつて、以下(1) ないし(3) の点を考えそして右三点について判断することとする。
(1) (一種の投票だけしか認めない制度を考える。)
国民審査の方法を憲法が定めるに当つては一応次のような方法を考えることができよう。
(甲) 例えば、審査に付される裁判官について罷免を可とする審査人にのみその旨の投票をさせ、この罷免投票の数が審査当日の審査人総数の過半数にあたるときはその裁判官は罷免されるとする方法をとることは理論上は不可能ではない。この方法によるときは、罷免を不可とする審査人、もしくは罷免の可否が判らないという理由などから投票したくない審査人は投票の労をはぶくことができる。しかし、この方法では罷免を不可とする審査人と棄権者といずれが多数であつたかの実情が判らない欠点がある。これは審査に無関心な審査人には便利であるが、しかし、かくては一般国民の国民審査制度、ひいては裁判ないし国政に対する関心を薄くする虞があり、審査に付される裁判官に有利に過ぎる嫌いもある。
(乙) 或いは反対に、裁判官を信任する審査人にのみ罷免を不可とする投票をさせ、この信任投票が審査当日の審査人総数の過半数にあたるときに限りその裁判官は引続き在任するものとし、それが過半数に満たないときは罷免されるとする方法をとることも理論上は不可能ではない。しかし、審査人総数の過半数の信任投票がなければその地位を保ち得ないとするような方法は裁判官に対し(殆んど如何なる重要な公務員に対してでも同様であるが)苛酷に過ぎる条件であつて、かくてはしばしば最高裁判所裁判官の更迭を来たし、ひいて裁判官の地位の安固を害する虞が多くなるといわなければならない。
(丙) 憲法が右(甲)(乙)いずれの方法をとるとしても、罷免投票なり、信任投票なりが審査人総数の過半数を占める場合が現実の問題として一般的にしばしばあり得るかどうかは疑問に属する。寧ろ常にいえることは、審査人中には裁判官の罷免を可とする者もあり得る。罷免を不可とする者もあり得る、その可否について投票しない者もあり得る、そしてこれらのそれぞれが占める数の多少は予想することができないということである。この考えを基本として憲法を立法するならば国民審査の方法としては全審査人に投票の機会を与え、審査人は特定の裁判官について自己の自由な意見に従つて「罷免を可とする投票」か「罷免を可としない(罷免を妨げる効果を持つ)投票」かいずれか一の投票をなすべく、しかし、投票しないで棄権することもできるものとし、得られた投票の多数が「罷免を可とする」ものであるときは罷免の効果を生ずる審査があつたものとする制度をとることが適当である。この方法は各審査人の意思をありのままにハツキリ知ることのできる適正確実な方法であるということができる。わが憲法はこの制度をとつているものである。このことは後に(その一)(三)(5) 及び同(三)1Aにおいて述べる。
(丁) ここで、ついでに、審査の投票方法として次のような立法をすることは合理的かどうかを考えてみる。すなわち、審査に付された裁判官の数と同じ枚数の白紙の投票用紙を審査人に交付し、審査人は、裁判官中、罷免を可とする裁判官についてはその裁判官の氏名を投票用紙に記載し、又、罷免を可としない裁判官については何らの記載をしないで白票を投函すべきものとし、各裁判官が得た罷免投票が罷免を可としない投票よりも多数である場合には審査において罷免が可決せられたものとする立法である。
この立法によれば、審査に付された裁判官が一人の場合にはもちろん、裁判官が数人の場合にもその裁判官全部について一斉に、罷免投票か信任投票か又は棄権かをすることはできるが、数人の裁判官中の一部について罷免投票をした後、残りの裁判官については、棄権しようとする審査人は投票用紙にその裁判官の氏名と棄権する意思表示とをして投函するという方法によつて棄権できると解しない限り、棄権する方法はない。白票を投ずればそれは信任投票と同じ効果、すなわち、罷免投票に対抗しそれを否定し罷免を妨げる効果を持つものとして扱われるからであるが、それは本人の意思に反する投票をなさしめるものである。
白票の中に信任投票と実質的棄権票との双方が含まれていることは、白票がいかに多数であつてもそれは或いは実質的棄権票を多数に含有しているかも知れないという危険性があることを意味し、もしかすると実質的棄権が百分の九十九を超える場合(審査法第三十二条但書参照)さえなしとしないことを示すものであつて、民意はありのままに反映されないことになる(後述その一(三)(5) 末段及び同(三)1B末段参照。)
のみならず、この立法の下における白票が、信任投票として扱われた暁においても、一体信任投票(白票)は、どの特定の裁判官を信任するというのか投票者は裁判官を特定して指示しないからその意思は表示せられずして不明である。しかし、国民審査で審査に付せられるのは、従つて、投票又は棄権が行われるのは、性質上、特定の個個の裁判官についてでなければならない(すぐ次にその一(三)(2) で述べる)。従つて、投票用紙上で裁判官の氏名を知り得ない信任投票は審査に付されたいずれの特定の裁判官の得票とも決し難く、せいぜいこれを混同して審査に付された裁判官全員に平等に分配してそれぞれ同数の信任投票を得たこととする外ない。
しかし、これは審査人の意思を正確に国民審査に表明する方法ではない。例えば、審査人は裁判官イ、ロ、ハの三人の中イについて罷免投票をロ、ハの二人について白票の信任投票をしたとせよ。この二枚の白票は審査人の意思に従えばイ裁判官の信任得票中に加えられるべきではないが、白票は裁判官の氏名を示さないから他のすべての白票と共に三等分せられてイ裁判官の信任得票中に加えられる不合理の行われる可能性はあるのである。結局、次のような場合を想定すればその不合理が判る、仮りに審査に付される裁判官が三人で、審査人が総数一、四〇〇万人あつて、全部有効投票をしたとする。この立法の下では裁判官一人毎に投票用紙一枚ずつが交付せられるのだから、投票用紙総数は四、二〇〇万枚で、各裁判官の得票は罷免を可とする投票と可としない投票とを合せて一、四〇〇万枚ずつある筈である。今もし、審査人をして罷免投票にも信任投票にも裁判官の氏名と罷免又は信任の意思表示とを記載せしめたならば、各裁判官の総得票は、裁判官イは罷免投票八五〇万票、信任投票五五〇万票、裁判官ロは罷免投票六九〇万票、信任投票七一〇万票、裁判官ハは罷免投票六八〇万票、信任投票七二〇万票というように分布せられたであろうという場合に、この投票をここに挙げた「信任投票は投票用紙に裁判官の氏名を記載しないで、投函する」という方法によつてしたとすれば、右裁判官各自の得た罷免投票が右の通りであることはもちろん変りはないが、どの信任投票はどの裁判官についてなされたものかを区別せられない結果、信任投票合計一、九八〇万票は平等に六六〇万票ずつ三裁判官に分配せられることとなり、得票は裁判官イは罷免投票八五〇万票、信任投票六六〇万票、裁判官ロは罷免投票六九〇万票、信任投票六六〇万票、裁判官ハは罷免投票六八〇万票、信任投票六六〇万票となり、従つて、前の場合には裁判官イだけが罷免されたのが、後の場合には裁判官三人とも罷免されることになる。前の審査結果が審査人の真意に合致する真実のものであり、後の審査結果は真実に適合しないものである。これは結局どの裁判官を信任するかを投票に表示させないで白票を投ぜしめた当然の結果として、審査人の隠れた意思に従えば信任白票を多く得たに違いない裁判官の得べかりし白票を、それを少なく得たであろうところの裁判官の得票に混同流用し、よつて全裁判官の信任投票を平均化したことから起る、約言すれば国民審査の性質に反し特定の一人ずつの裁判官の氏名を信任投票に表示せしめない投票方法をとつたことから起る背理である。
要するにこの立法は国民の投票において棄権の自由を侵してはならない、棄権の自由があつてこそ投票が投票者の真意を表明するものである(後述その一(三)(4) (5) 参照)ということを認めず、又、棄権票と信任投票とを混同し、もしくは、特定の一人の裁判官に対する信任投票を他の裁判官に対する信任投票として扱うような投票者の意思を無視する不合理があるものと結論する外なく、これは審査人が裁判官について罷免を可とする場合にのみその旨の投票をさせる前記(甲)の立法に比して投票者の意思を無視するだけ寧ろ一層不合理な立法といわざるを得ない。かような立法は固より現行憲法に違反するものである。
以上のことから、審査の投票は罷免投票も信任投票も共にどの裁判官についてなされるのかが明らかにせられるように、又、棄権もどの裁判官についてなされるのかが混同されないように仕組まれなければならないことが判るのである。
(2) (審査は、従つて投票ないし投票欄は裁判官毎に独立のものである。)
国民審査は性質上特定の一人の最高裁判所裁判官について行われるべきものである。すなわち憲法第七十九条第二項は、或特定の最高裁判所裁判官が任命後初めて総選挙を迎える場合、或いは国民審査を無事に通過してから十年を経過した後初めて総選挙を迎える場合には、彼は国民審査に付されるべきことを定めているが、各裁判官の任命の日又は前の国民審査の日は異り得るものであるから国民審査は場合によりただ一人の裁判官について行わなければならないばかりでなく、本来審査人が罷免の可否について投票するのは審査に付された特定の一人一人の裁判官についてであり、罷免を可とする投票と可としない投票とのいずれが多数であるかを比較することも、又審査の結果罷免の効果が生じたり、生じなかつたりすることも、同様に一人一人の裁判官についてでなければならないことは審査の性質上当然のことであり、憲法第七十九条第二項、第三項の予定しているところである。
このことは本件の問題を解決するに当つて忘れてはならないことである。だから又、審査は最高裁判所裁判官の中の特定の誰が審査に付されるかを示して行われることを要するものである。審査は現職の最高裁判所裁判官達の中から誰かを罷免を可とする者として選び出す制度であると解する被告などの見解は正しくない。
審査従つて又その投票の対象が特定の個個の裁判官であり、投票と審査の効果が決定せられるのもその特定の個個の裁判官についてであるということは審査法第十四条第二項、第十五条、第十六条第一項、第二十二条、第三十二条本文にも現われている。もつとも同法第十四条、第十五条などは審査に付される裁判官が二人以上あるものとして規定しているかのように見えるが、これは裁判官が二人以上審査に付されるときについて規定すれば裁判官ただ一人の場合はおのずから明らかであるからに外ならない。法律上の性質からいえば二人以上の裁判官が同時に審査に付されることはいわば偶然のことであつてその場合でも審査は各裁判官個個について行われるのであり、すなわち、二人以上の審査が同時に併合して行われる訳なのである。この理は審査に付される二人以上の裁判官について審査法第十四条所定の場合のように同じ一枚の投票用紙を用いる場合にも変るべき筋合ではなく、投票の趣旨及び効果はその各裁判官についての欄毎に各別に定められるべきものである。もつとも投票用紙は投票者一人について一枚を用いるのであるから審査事務或いは投票用紙の取扱などに関しては右の場合これを一個の審査、一個の投票として考えることが法令規則の上でも実務取扱の上でも適当である場合のあることはいうまでもない。(例えば審査法第六条、第十四条はこの意味を含む。)
(3) (罷免を可とする投票と罷免に反対する効果を持つ投票。二、三の立法の想定と条理。)
憲法第七十九条第二項、第三項は「最高裁判所裁判官の任命は…………総選挙の際国民の審査に付し」「投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は罷免される」と定めているところから観ると、憲法は第一に、裁判官の罷免を可とする投票と左様でない投票とがあつて、前者が後者より多いかどうかが比較されなければならないものとしていること、第二に、罷免を可とする一票は裁判官を罷免させる方向の効果を持ち、左様でない一票は裁判官を罷免させることを否定し、妨げ、これに反対する方向の効果を持つものとしていること。すなわち、前者が後者よりも多くないときは裁判官の罷免は否定せられるものとしていることが判る。もちろん、ここに投票というのは法律上の有効要件を備えた投票をいうのであつて、無効投票は投票として罷免させる方向の効果をも罷免に反対する効果をも持たないものとせられるべきことはいうまでもない。しからば審査においては投票の有効要件を定めて審査人をして罷免を可とする投票か左様でない投票かをさせ前者が後者より多数なるときは裁判官は罷免せられることとすることは憲法の要求に適合する訳である。
今、事柄の性質を明らかにするため、現行憲法に適合する範囲内で、しかも現行審査法とは違つた審査方法を定める一、二の立法を考えてみたい。
(い) 先ず、投票方法を次のように定める立法はどうか。すなわち、審査に付される各裁判官の氏名を各別に印刷した投票用紙(一枚の用紙にただ一人の裁判官の氏名を印刷したもの)をその裁判官全員分だけ審査人に交付し、審査人をして罷免を可とする裁判官については×印を、「罷免されないことに異議のない」裁判官については○印を記載して投票せしめ、前者の投票が後者の投票よりも多数である裁判官は罷免せられるものと定める立法はどうか。この立法の下では或一人の裁判官について棄権したいと思う審査人はいずれの記号をも記載しないで白票を投ずることができる。この立法によれば現行審査法の連記投票のように投票と棄権の自由が不当に制限せられるというような論旨の出る余地がなく、合憲であることは明らかである。
問題は、この白票を「罷免を可としない」投票として有効のものとして取り扱うことが許されるか、である。思うに、罷免の可否について裁判官毎に別個の投票用紙に×印か○印を記載させる投票制の下で投ぜられた白票は、審査人が罷免の可否が判らないなどの理由からその可否について投票する意思がなく、沈黙し棄権する意思を示すものであつて、これは罷免を可とする投票でも罷免に反対する投票でもないと見なければならない。かく見ることは本人の意思に合致し。従つて国民審査をして審査人の真の総意を反映するものたらしめる上からいつて正当なことである。
この白票を例えば、罷免に反対する投票として扱うのは彼が○印を記載しなかつた彼の意思を無視するものである。
この白票は、他事記入(審査法第二十二条)をしたり破つたりして無効のものとせられた投票或いは投票用紙の不投入と性質上同一であつて「投票」ではなく「無」(ゼロ)である。この制度の下では或裁判官の罷免を可とするか否かがどうしても判らないと思う審査人はこの白票を投ずるなり投票しないなりして棄権することができるのである。
しかし、この立法の下で、白票は罷免の可否が判らない審査人だけがするものだとは限らない。
罷免の可否が判つていても何らかの理由で棄権したい考から投じた白票もあるのである(後述その一(三)1B参照。)漫然「白票は在任に異議のない有効投票である。」と断ずることはできない。在任に異議のない投票は別に○印の信任投票としてなされているのである。従つて、白票は単に棄権票である。白票投票には罷免の可否が判つている者も判らない者も包含せられているのである、と観念すべきである(その一(三)1Bにおいて後に述べる。)
(ろ) それでは投票方法を次のように定める立法はどうか。すなわち、審査に付される裁判官毎に別個の投票用紙を用い、罷免を可とする裁判官については×印を、「罷免されないこと(在任)に異議のない」裁判官については○印を記載して投票せしめる、又、何らの記号を記載しないで白票を投ずることもできるようにする。しかし白票は○印の投票と同じく罷免に反対の効果を持つものとして扱うべきことを法律で規定しておく立法をとることはどうか。この立法は白票を○印の投票と同じく罷免に反対する投票として扱うべきことを法律で明示している点が前段(い)の立法と違う。この立法の下で審査人が白票を投じたとすれば、彼は白票は罷免に反対する有効投票として○印の投票と同様に扱われることを知つて(もしくは、知るべき立場にあつて)白票を投じたのであるから、これを罷免に反対する有効投票として扱うことは彼の意思には反しない。けだし、もし彼が自分の投票を罷免に反対の投票として扱われたくないならば彼は投票せず又は他事記入による無効投票によつて棄権する自由を持つているからである。従つて、この立法の下での白票は前段(い)の立法の下での白票と異り「無」ではなく、罷免に反対する有効投票であり、そのことが初めから法律に規定されていること○印投票と同じである。この立法の下での白票が信任投票であるべきことは、恰かも罷免を可とするときは×印を記載すべきことが規定せられている場合に×印投票が罷免投票として扱われるべきことと同じである。(後述その一(三)(5) 参照。)だから在任に異議のない審査人は○印投票をしてもよく、白票を投じてもよく、結局○印を記載する面倒を省いて白票を投じてもよいことになる。この場合に投票は罷免を可とする投票と罷免を可としない投票との二種に分れるが、「罷免を可としない」投票とは「罷免しないことに異議のない」投票すなわち、信任投票に外ならない。この信任投票をしたくない審査人は自由に罷免投票か棄権かを選ぶことができ、棄権は投票用紙が裁判官一人一人について別個のものであるから容易にすることができる。
(は) そこで(ろ)の立法を整備して、これと同趣旨の立法をすれば次のようなものになる。すなわち、審査に付される裁判官毎に別個の投票用紙を用い、「罷免を可とする」裁判官については×印を記載し、又、「在任に異議のない」裁判官については何らの記載をしないで投票用紙を投函せしめる、後者の投票には何らの記載はないがこれには裁判官の罷免に反対する投票(信任投票)としての効果を認める。という立法をすることになる。これによれば、信任投票をしたくない審査人が罷免を可とする投票をもしたくないなら彼は棄権する外ない。投票用紙は裁判官別に各別になつているから棄権は裁判官別にすることが可能である。従つてこの立法の下では審査人が自己の意思に反して罷免投票なり信任投票なり、棄権なりを余儀なくさせられることはない。この立法は投票と棄権とを自由にすることができることが明白になつている点において優つているといえる。
しからば、現行審査法はこれらの立法にくらべていかなる点において異同があるかを見よう。
第一に、現行審査法の下でただ一人の裁判官が審査に付される場合は、一人の裁判官のために一枚の投票用紙が用いられ、そして投票用紙に何らの記載をしないで投票すればそれは罷免に反対する効果を持つものとせられる(審査法第十五条、第三十二条)場合であるから、恰度前記(は)の立法に該当する。
従つて罷免投票又は信任投票或いは棄権が自由にできることは明白で問題にならず、合憲である。
第二に、現行審査法のように、罷免を可とするときは×印を記載し、又、在任に異議がないときは何らの記載をしないで投票用紙を投函すべく、×印の投票が何らの記載のない投票よりも多数のときは裁判官は罷免せられると規定したとしても、もし審査法が審査に付される裁判官毎に各別の投票用紙を用いるべきことを規定する立法をするならば、これは全く前記(は)の立法に該当する。従つて何らの記載をしない投票は「裁判官の在任に異議がない」とする信任投票の意味での「罷免を可としない」投票なのであつて、これは「罷免の可否が判らない」投票でもなく棄権でもないのである。審査人は或特定の裁判官について棄権しようと思えばその裁判官の分の投票用紙を投函せず或いは他事記入による無効投票をすることによつて棄権する自由を持つているのである。こうように、要するに、常に裁判官毎に投票用紙を別にする立法をとつたならば、たとえ信任投票の方式を「投票用紙に何等の記載をしないこと」と定めても、審査人は可否いずれの投票でも又棄権でも自由にできることは余りに明白であるから違憲ではなく、又「右無記載投票は罷免の可否が判らない者の白票(もしくは棄権)を信任投票として扱う不当があるものだ」などという論旨がでる余地は先ずないと思われる。
第三に、現行審査法の定めるいわゆる連記投票の場合である。この場合に審査人は果して常に自己の意思とおりに罷免投票もしくは信任投票或いは棄権をする自由を持つているであろうかという点は確かに問題になる。もし審査人が連記投票用紙を用いてはその中の一人の裁判官についてだけ棄権する方法がない場合が生ずるとすれば連記投票制を定める現行審査法の規定は審査人の投票における棄権の自由を奪いその投票に本人の欲しない効果を付与する違憲あるものといわざるを得ない。
問題は、現行審査法の下で、同時に二人以上の裁判官が審査に付された場合に、審査人がその中の一人だけについて棄権したいと思う場合に常に棄権する方法があるか、例えば甲、乙、丙三人の裁判官が審査に付されている場合に、審査人が「甲については罷免させたい、乙については罷免させたくない、丙については棄権したい。」と考える場合に審査人はどうしたら丙について棄権することができるか。甲については×印をつけ、乙については信任投票の意味で空白欄を残すことが必要であるが、丙についてはどうすればよいか、丙を罷免させたいと思わないのであるから×印をつける訳にはいかないし、丙を信任する(換言すれば丙が罷免されないことに異議はないとする)のでもないから記載欄を空白にして投票する訳にもいかない、全然投票用紙を投函しないなら、甲、乙についての投票は不可能になる、丙についての欄だけにおいて棄権する方法はないかという問題である。
思うに現行連記投票制の場合には、審査人が棄権を欲しないならば問題はなく、彼は投票用紙に記載せられた裁判官の全員についてでも一人についてでも罷免投票又は信任投票を自由にすることができ、又、全員について棄権を欲するならそれもする方法があることは明らかである。従つて問題になるのは、結局、審査に付された裁判官中の一人について信任投票をし、他の一人について棄権する方法があるかということに帰する。もし棄権の方法がないならば現行連記投票制が違憲だということになる(後記その一(三)(4) (5) 参照)。仮りに連記投票制をとるとしても、審査人をして各裁判官について罷免を可とするときは×印を、罷免されなくても異議がないとするときは○印を記載すべきものとする立法をとるならば、棄権したいと思う審査人は×印をも○印をも記載せずに真正の意味での白票を投ずることができるからこれは前記(い)の立法と同じく投票と棄権の自由が保障せられた合憲のものだということができる。この立法は筋の通つたものであるのに、これをとらなかつた理由の中にはわが国民大衆の現状では棄権が多くなつて国民審査が国民の総意を表明するに足らず国民投票たるの実を備えないものに堕する場合が生ずる懸念があつた点などがあると思われる(後記その一(三)(5) 1B2参照)。それゆえに現行審査法が立法せられたのであり、当裁判所は現行法では審査に付された裁判官数人中の一人について棄権しようと思う審査人はその裁判官についての欄だけにおいて積極的な方法で棄権する方法はあると解するものである。が、この点は次に(4) で述べる。
(4) (現行法の下で棄権は可能である。)
当裁判所は、審査法第十四条所定の投票用紙を用い第十五条所定の方式で投票すべきものと定めた場合においても、審査人は審査に付された裁判官の一人だけについて投票しないで棄権することは可能であり且つ許されなければならない、棄権の方法は投票用紙の当該の裁判官に対する記号記載欄に棄権という文字を記載するなど棄権の意思を表示してこれを投函することである、と解するものである。そもそも審査は憲法の上で性質上個個の裁判官について各別になされるべきものであること前述のとおりである。そしてこのことは投票をするかしないかも、投票の趣旨(罷免を可とするか否かの)も、投票の効果も個個の裁判官各別に考えられなければならないことを意味し、これは連記投票の場合でも審査人が或一人の裁判官について棄権したいと思うときは棄権する途をたとえ多少面倒でも常に開いておかなければならない(後にその一(三)(5) で述べる)ことを意味する。憲法の上からは当然には連記投票制はでて来ないし、たとえ連記投票制をとつても各裁判官に対する記載欄に罷免を可とするときは×印を、在任を可とするときは○印を記載すべきものとする立法(前述その一(三)(い)(ろ))をとるときは、或一人の裁判官についてだけ棄権したいと思う審査人は投票用紙の当該裁判官に対する欄に何らの記載をしないでこれを投函することができるのであつて、同様な棄権方法は現行審査法の下でもなければならないし、又現に禁止せられてはいないのである。問題は、そんな棄権の意思表示の記載は審査法第二十二条第一項第二号によつて他事記入としてその一枚の投票用紙を用いてなされた連記投票全部を無効とするものではないか、ということである。思うにいわゆる他事記入の禁止は投票の趣旨が簡明正確且つ迅速に判明し審査事務の管理が明確迅速に行われること、並びに憲法第十五条第四項に従つて投票の秘密が保障せられることを目的とするものであつて、この目的達成上必要な限り厳重に守られなければならないが、そうでないときは必ずしも厳格に解釈せられるを要しない。現に公職選挙法では候補者の氏名の外、職業、身分、住所又は敬称の類を記載したものはこれを無効としていない(公職選挙法第六十八条第一項、第五号但書)から、これによれば選挙人が予め投票用紙における職業、身分、住所又は敬称などの文言や書き方を暗号として用いることを通謀して投票し、よつて投票の秘密が漏れるようにする可能性が幾分多くなるかも知れないが、よつて生ずる弊害はいうに足らないので、同法の右規定は妥当であつて違憲とはいえないのと同様である。当裁判所は、現行審査法の解釈として、一人の裁判官についての一欄内に限つてなされた「らくがき」のような一般の他事記入がその一欄だけを無効ならしめるか、又はその投票用紙の全欄を無効ならしめるかの問題はしばらくおき、又、国民審査がただ一人の裁判官について行われる場合には他の棄権の方法があるからこれを除外し、審査が数人の裁判官について連記投票の方法で行われる場合に他に棄権の方法がない場合に限り、審査人は或一人の裁判官についてだけ棄権したいと思うときは投票用紙の当該裁判官に対する記載欄内に限り「棄権」「キケン」などの文字その他棄権の意思を表示する記載をしてその裁判官について棄権することができると解する。これがこの場合における唯一の棄権の方法でありこの方法をさえ許さないと解するにおいては審査法は憲法の保障する投票と棄権の自由をふみにじつた違憲のものだというの外ないのである(前述その一(三)(3) (は)及び後記その一(三)(5) 参照)。この解釈は或一人の裁判官についての欄内になされた棄権の意思表示でない「らくがき」(例えば俳句)の記載までも棄権と解するというのではない。
要するに、当裁判所は他事記入を広く認めるのでなく、現行審査法の下での連記投票の場合で他に棄権の方法がないときに限り且つ棄権しようとする裁判官についての記載欄内に棄権の意思を表示することによつてのみ例外的に審査人は棄権することが許される、そしてこの場合だけは例外的に他事記入とせられずその投票用紙における裁判官全員に対する投票の無効を来すものではないと解する。かく棄権の許される場合とその方法とを狭く解するときは棄権の途を幾分狭くする結果となるが、棄権の途を杜絶するという重大な法の欠陥はなくなる。そして当裁判所の解釈は棄権の方法として投票用紙に種々雑多な「らくがき」を許すという訳ではないから、第一に、審査事務の管理の正確簡明も害されることなく、第二に、全国数千万の審査人が同時に行う審査投票の際投票用紙内の一欄内にこの棄権の意思表示だけをすることを投票の秘密を漏らすための暗号として用いるような陰謀は、その方法において至難のことであり、それが審査の総結果に異動を生ずる程度の少くとも幾千人という多数審査人の間で行われなければならない以上陰謀の秘密が曝露する公算が頗る大きいため殆んど企図実行せられ得ないから、投票の秘密が侵される虞もいうに足らないことになり、しかも棄権の自由は現行審査法の下でも常に保障せられているのを見ることになるのである。
(5) (棄権を不可能ならしめる投票方法を定めた法律は合憲か。投票の法律上の義務があるか。)
国民審査における審査人の投票の権利は憲法第十五条第一項が国民固有の権利として保障する公務員選定・罷免の権利の一に属し、主権は国民に存するという憲法の国民主権主義の顕著な現われの一である。しかして国民の総意が投票によつて形成される場合には投票者の意思が自由に表明せられなければ国民の真の総意とはいえずこれを国政の基礎となし得ないこというまでもないから、公務員選定・罷免のための国民の投票権の行使に当つては投票の権利と棄権の自由が侵されてはならない。このことは憲法第十五条第四項の投票の秘密の保障の規定、同法第二十一条第一項の表現の自由の保障の規定から明らかである。国民審査における投票の権利は審査人が裁判官の罷免を可とする投票をするか、否とする投票をするかの選択を自己の自由な意思に従つてすることができる意味を含むと共に、投票をしないこと(棄権すること)の選択をも自己の自由な意思に従つてすることができることを意味する。審査が国民の総意の表明たる実を挙げるにはそれができるだけ多数の国民の投票によつて行われることを理想とするが、同時に、審査は一般国民の投票によつて行われる普通選挙と同じく投票による国民の真実の総意の表明でなければならないから、そして棄権の自由があつてこそ投票が真意の表明として国政の基礎とせられる価値を持つのであるから、審査人に法律上の投票義務を課することは適当でない。これは法によつて構成せられる会議体の会議において構成員が発言表決の権利と同時にその義務を有するものとせられてよい場合があり得るのとは違うのである。審査人の棄権の自由は国民の公務員選定・罷免の権利そのものに関するものであるから、単なる表現の自由以上に憲法上重要なものであり、従つて、単なる投票方法の技術上の問題ぐらいで棄権の自由が奪われるような立法をしてはならないのである。
裁判官の罷免を可とするか在任を可とするかがよく判らない審査人は熟考の末罷免投票か信任投票をすることができる。しかし、いくら熟考しても罷免の可否が判らないときでも彼はいずれかの投票をしなければならないとすることは、投票権者の真意に反する投票を強いることになり、国民をして国民の真の意思を示し得ずまた知り得ざらしめる結果となる。のみならず、投票義務の違反に対し何らかの制裁を課する立法をして投票を義務としてみても、投票権者が無効投票をすることを事実上阻止する方法もなく後になつてから投票義務違反を調査する方法もない。殊に大切なことは棄権の意思でなされた無効投票を本人の意思に適合する何らかの有効投票(すなわち有効な罷免投票か有効な信任投票)として扱う方法もあり得ないことである。けだしそれは本人の意思に反する効果をこれに付与するものだからである。ここで注意しなければならないのは「棄権しようとする者」は「あくまで罷免の可否が判らない者」以外にもあり得るということである。例えば、審査人は裁判官を罷免させるべきであるということは判つているが、私情においては罷免投票をするに忍びないから棄権したいと考える場合、或いは、審査人自身が審査に付された裁判官本人であるような場合、その他、審査人が罷免の可否は判つているが政治的、道徳的理由その他の理由から棄権したいと思う場合はあり得ることもちろんであつて(後述その一(三)1B参照)、かように審査人がいずれの投票をも欲しないならすべて棄権せしめる外ないのである。要するに「罷免の可否が判らない審査人」というものは「棄権したいと思う審査人」の概念の中に包含せられるべきものである。
以上述べたように、棄権は常に許されなければならないことは国民審査における投票用紙の様式、投票の方式、裁判官の一人又は数人であることのいかんにかかわらず、変りはない。既に(前述その一(三)(3) (い)(ろ)(は))で見たように、審査が(一)裁判官毎に別個の投票用紙を用いて行われる立法の場合、又は、(二)連記投票制の下でも罷免を可とするときは×印をつけ、在任を可とするときは○印をつけて投票すべきものとする立法の場合には、棄権の自由とその方法があることは極めて明瞭である。(三)現行法の下でも(イ)審査に付された裁判官がただ一人の場合、(ロ)又は、数人の裁判官の全員について、棄権しようとする場合には、審査人には棄権の自由とその方法があることもまた明らかである。これから観ても国民審査については投票義務を認めず棄権の自由を認めることは合憲で合理的な、審査に普通の法則だということができる。ひとり現行審査法の定める連記投票制の下で数人の裁判官が審査に付される場合に限つて棄権の自由は奪われるのであろうか。又奪われてよいものであろうか。連記せられた裁判官中の一人について棄権することが許されないなら審査に付された唯一の裁判官について、又審査に付された数人の裁判官の全員について棄権することも許されない筈である。寧ろ連記投票の場合一人の裁判官だけについて棄権できない場合を生ずるとすれば現行連記制こそ違憲ではないのか。前記(その一(三)(3) )設例の審査人が裁判官甲については罷免投票を、乙については信任投票を、丙については棄権をしたいと思う場合、丙については棄権する方法はないのであろうか。要するに、審査に付された裁判官二人の中一人について信任投票をし、他の一人について棄権する方法はないのであろうか。
この場合当裁判所の解釈のように各裁判官についての記載欄の独立性(既述その一(三)(2) )を認め棄権したい裁判官についてはその欄内に棄権の意思表示をすることによつて棄権することを認めるなら格別、左様でないならば連記の二人の裁判官の内乙については信任投票をし丙については棄権したいと思う場合に棄権する方法はない。もし審査人は丙について罷免投票か又は信任投票をしなければならないというならば、それは彼の意思に反する投票を強いることになる。丙については何らの記載をしないで投票しなければならないとするならばこれまた彼の意思に反する信任投票を強いることになる。
けだしこの後の場合は彼が丙について何らの記載をしないで投票するときは法律はこれに信任投票としての効果を与えるからである。この場合に審査人がそれを嫌つてあくまで棄権したいと思うときに連記せられた中の一人の裁判官についての欄だけにおいて棄権する可能性を法が認めないならば、棄権の自由は奪われたことになるのである(前述その一(三)(3) (は)(4) 参照)。
一説によれば、罷免を可としない投票というのは広く信任投票と「罷免の可否が判らない」者の投票とを包含するものと解する。しかし、「罷免の可否が判らない審査人」の観念中には、その可否が判らないために結局罷免投票をする決意、又は在任に異議なしとする信任投票をする決意を持つに至つた者を包含せしめてはならない。けだし、この両者は、正確にいえば、既に罷免投票又は信任投票をする意思を持つに至つた者だからである。従つてあくまで罷免の可否が判らない審査人とは、正確にいえば投票を欲しない者に外ならない。しからばあくまで投票を欲せず棄権の意思しか持たない審査人をして記載欄に何らの記載をしないで投票せしめ、これに罷免を妨げる投票、すなわち信任投票としての効果を持たせることは本人の意思に反して投票を強いる不当を敢てし、その種の投票が審査の総結果に異動を生ずる危険を招くような場合も生ずることを是認する不合理と違憲があるといわなければならない。この場合に、かかる投票も「罷免を可とする投票」でない投票であるから「罷免を可としない投票」の一種に属すると解し「罷免の可否が判らないために棄権したいと思う審査人は罷免を可としない投票をすべきである。」というのは正当ではない。(この点については後にその一(三)1B末段でも述べる。)けだし、罷免を可としない投票は罷免に反対し、罷免を否定する効果が付せられるから、これは性質上効果上信任投票であるから、あくまで棄権したい者がこの投票をすることは間違いであり、「罷免を可としない投票」の中には棄権の意思を示す票は全然含まれない筈だというのが法の立て前だからである。(ただ「罷免の可否がよく判らないために裁判官が罷免されなくても異議はないと思う審査人は罷免を可としない投票をすべきである。」というのは正しい。この投票に対しては投票者の意思どおりに罷免を妨げる効果が付せられることになつており、それでよいのである。)
本当の意味で「罷免の可否が判らない」ため、その他の理由で投票を欲しない審査人に対しては立法としては棄権する方法を常に残しておくのでなければ憲法に定めた投票(及び投票しないこと)並びに表現(及び表現しないこと)の権利、自由を侵害する違憲あるものといわざるを得ないのである。
「投票用紙が裁判官毎に別個のものになつていたならば棄権したに違いない審査人が、たまたま投票用紙が特異の連記制になつている場合には棄権の方法がなくなるが、それでよいのだ。」というのは論旨が一貫しない。このような場合には、当裁判所のように、各裁判官に対する欄毎に棄権できるという解釈をとらない限り、彼は裁判官全員について棄権するか、或いは当該裁判官に対し罷免もしくは信任の投票をする外ないが、この場合、この三つの態度はいずれも彼の意思に反するものであるから、これをもつて国民審査を決すべき投票と認めることは失当である。寧ろ、罷免を可とするときは×印、可としないときは○印を記載すべきものとすればこの点では問題はなかつたのであるが、そうしないで単純な連記投票制を定めた現行審査法の規定は、後に(その一(三)1Bにおいて)述べる棄権防止の必要に出でたものではあるが、この点についてはおかしいのではないかを検討すべきである。当裁判所はこの点を検討した結果、現行法の下でも各裁判官に対する欄毎に棄権する方法があると解するものである(前述その一(三)(4) 参照)。審査人が棄権しないでした投票で×印をつけてないものは裁判官の在任に異議のない意思の表明であり同法は法定の形式に従つて示された本人の意思とおりにこれを信任投票としたのであり、棄権は「無」であつて投票ではなく、これは罷免に反対する投票としての効果を持たしめらるべきではないと解する。そしてこの解釈が投票の性質に適合すると考えるものである。
法律が罷免投票をしたいなら記載欄に×印を記入し、信任投票をしたいなら何らの記載をしないで投函せよと定めている場合に、投票が何らの記載をしてないものならこれは当然信任投票と解せられるべきことは、×印の投票が当然罷免投票と解せらるべきであるのと同じである。けだし、投票はそれに表示せられたところに従つてその趣旨を解せられなければならないのを原則とするからである(後述その一(四)参照)。本当の意味であくまで棄権したいと思う審査人は単に漫然「罷免の可否がよく判らない。」と考え、その揚句「裁判官が在任しても異議はない。」と考える審査人に比して極めて少ないかも知れないが、現行法はこの少数の審査人のために棄権の方法を残しているという当裁判所の解釈をとる以上、現行法の連記投票制は合理的且つ合憲のものであるということができる。又当裁判所の解釈によれば、罷免の可否のよく判らない沢山の審査人が棄権するために、国民審査は国民の総意の表明たる実を失うことや極めて少数の一派の審査人の意思によつてしばしば最高裁判所裁判官の罷免更迭を来たし裁判官の地位の安定を害する虞を生ずるというようなことはみだりに起らないようにすることができるのである。是非とも棄権したいと考える熱心な審査人は現行連記投票制の下では棄権したいと思う裁判官に対する欄内に簡単に棄権の意思表示をすれば足り、この意思表示に棄権の効果を認めることは現行審査法を合憲のものと解するために必要なことであると考えられる(後記その一(三)(4) 1B)。もしそれ、各裁判官に対する欄毎に棄権する方法があると解することが現行法の下では無理であるというなら、棄権の自由を奪う場合を生ずるように定められた現行審査法の規定こそ違憲のものというの外ないのである。
要するに裁判官毎に別個の投票用紙を用いるか連記投票制でも罷免投票は×印、信任投票は○印をつけて投票する方法をとるかするならば棄権は自由である。もし、このような制度でない現行連記制の下では棄権が許されない場合があるという解釈をとらなければならないとすれば、右のような制度の下でなら投票したに違いない審査人は現行連記制の下では信任投票を余儀なくしなければならない。さすれば、罷免を可としない投票の中には実質的棄権票であるところの信任投票をいくらか含む結果となる。「それは投票が表示によつてその趣旨が理解されなければならない当然の結果である。」とは、この場合いえない。かくいい得るのは、棄権の自由がある場合に限るのである。
もし「罷免を可としない」投票の中に信任投票と実質的に棄権の意思でなされた投票との二種が含まれていてそれらがすべて裁判官罷免に反対する効果を持つことを是認するとすれば、「罷免を可としない」審査決定の信任投票は、実は、実質的棄権票を多数に含有しているかも知れず、それは審査の結果に異動を及ぼす程度のものであるかも知れないという欠陥を投票の仕組そのものに内蔵するものであることを是認しなければならない。
すなわち、この審査決定は、もし棄権を許したならば、実質的棄権の信任投票の総数が審査の結果を逆転させたであろうという場合(例えば、罷免投票四〇パーセント、実質的信任投票三五パーセント、実質的棄権の信任投票二五パーセントの場合)や、実質的棄権票が百分の九十九を超えていて審査決定が国民の総意の表明たる実を備えないという意味で裁判官罷免の効果を生ずるに足らないとせられるという極端な場合(審査法第三十二条但書参照)であるかも知れないという欠陥を常に持つものであることを是認しなければならない。
かくては折角の審査の決定も民意をありのままに明確に表明しない、価値と権威の乏しいものとなるのである(前述その一(三)(1) (丁)、同(三)1B末段参照)。
もちろん、罷免投票、信任投票及び実質的棄権の信任投票がそれぞれどれだけの数に上るかの具体的調査は、投票の秘密保護の必要や、審査人数と投票数とが余りに多数であることから投票者の真意を確知することが不可能であり、又、これを調査して投票の効力を覆えし得るものとすることは投票によつて生ずる法律関係の安固を維持する上から許されないことであるため、行われ難いところであるが(後記その一(四)参照)、右の投票方法は、投票強制を伴なうがために、投票の仕組そのものに当然審査人の意思をありのままに表明しない欠陥があることは争い得ない(後述その一(三)1B末段参照)。
これに反し、棄権を認めるならば個個の投票は投票者の真意に合致し、審査の総結果における両種の投票の数(及び棄権の数)が国民の意思をありのままに表明しその大勢を国民に知らせ憲法の精神に叶つた好結果をもたらすのである。論者のいうように、現行審査法は実質的棄権を信任投票に繰り入れ、そして棄権が不可能な場合を生じても止むを得ないとしているものと解する外ないならば、現行法の立法には無理と違憲があるといわざるを得ない。
当裁判所は、国民審査は審査に付された特定の個個の裁判官について、在任の可否についての国民の真意を投票において表明せしめる制度であり、現行法の下では、審査人は、罷免を可とする投票か在任を可とする投票か或いは棄権かを自己の自由なる選択によつてすることができると解するものである。かような方法こそ解職投票制度において投票者の真意をありのままに投票の総結果に表明せしめるに適するものであつて、解職制度に普通の妥当な方法であり、現行審査法がこの方法をとつていると解しうることこそ同法を合憲のものと断定しうる正当の理由なのである。
以上(1) ないし(5) において示したところによつて、おのずから前述の(イ)、(ロ)、(ハ)の三点についての当裁判所の見解は判ると思われるが、更に、以下1、2、3においてこれを述べる。
1 (「罷免の可否不明の審査人に対しその意思の発表方法を定めていないことは思想及び良心の自由を害するものである。」との論旨について。)
A (罷免を可とする投票と罷免に反対する投票との二種しかない。)
憲法第七十九条第二項、第三項は、国民審査においては審査人に最高裁判所裁判官の「在任の可否」裏からいえば「罷免の可否」について投票せしめ、投票の多数が「罷免を可とする」ときはその裁判官は罷免される旨規定している。
これによれば、第一に、投票には、「罷免を可とする」投票と左様でない投票との二種があり、前者の投票が後者の投票よりも多いかどうかが比較せられなければならないこと、第二に、罷免を可とする一票は裁判官を罷免させる方向の効果を持ち、左様でない一票は罷免させることを否定し、妨げ、これに反対する方向の効果を持つこと、すなわち、前者が後者よりも多くないときは罷免は否定せられることが判る。ここに投票とは法律上の有効要件を備えた投票を指すこというまでもない。以上は既に(その一)(一)(2) (ロ)及び(三)(3) において述べたところである。
しからば憲法は投票には二種あるべきことを定めているといえる。第一種の「罷免を可とする」投票とは広く「是非とも罷免されなければならない。」「罷免される方がよいだろう。」又は「罷免されることに異議はない。」という意思の投票(在任を否とする、不可とする投票、罷免に賛成する投票)であり、これは罷免投票又は不信任投票といつてよい。第二種の投票は第一種に属しない投票である。しかし、第二種の投票は罷免に反対する効果を付与せられるものであるが、この効果は固より投票者の真意に従つて付与せられるべきものであるから、第二種の投票は結局罷免を否定する投票(罷免を否とする、不可とする、罷免に反対する投票、在任を可とする投票)であつて、広く「決して罷免されてはならない。」「罷免されない(在任する)方がよいだろう。」又は「罷免されない(在任する)ことに異議はない。」という意思の投票でなければならないのである。
しからば、罷免を可とするか否とするかについて「意見なし。」「沈黙する。」という意思を示す票は第一種の投票でも第二種の投票でもなく、全然投票としての効力を持たない単なる「無」すなわち「不投票」であり棄権であつて、これは罷免の可否を問う審査において投票より除外されなければならない筋合のものである。仮りに投票の方式として、投票用紙に、罷免を可とする者は×印を、罷免を不可とする者は○印を記載すべく立法した場合に、×印をも○印をも記載しない白票は無効のものとして、罷免の可否について投票を比較する際には除外されるべきものである。これを×印の票または○印の票に入れることは本人の意思に反する。審査人であくまで罷免を可とするか否とするかが判らない者は結局この白票を投ずる外ない。この場合に、「前記の白票は罷免を可とする投票でないからこれもまた罷免を否とする投票と並べて第二種の罷免を可としない投票の部類に入れるべきだ。」とする説は正当でない。この説は、前例の場合に×印をも○印をもつけない票は○印をつけた票と同じく罷免反対投票として扱つてもよいという不合理な説だといわざるを得ない。
法律が○印の票にのみ罷免を妨げる効果を付すべきことを定めているのに白票にまで罷免を妨げる効果を認めるのは法律の趣旨にも本人の意思にも反するものだからである。すなわち、罷免の可否不明などのため「意見なし。」「沈黙する。」という趣旨の票を投ずることを認めるということは棄権の趣旨の白票を認めることに外ならない。すなわち、第二種の投票の中にかような白票は混入せらるべきでなく、第二種の投票としては罷免反対投票(信任投票)一本だけしかない。たとえ、罷免の可否不明というような白票を何らかの形式で区別して、これを第三種の投票として、もしくは第二種投票中の特種のものとして扱うべく立法してみても、結局これは罷免を可とする投票と否とする投票といずれが多いかの決定の場合には除外せらるべき性質のものなのである。
国民審査とは罷免を可とするか否とするかについて国民をして投票させ罷免投票が多数か否かを見る制度である以上、国民は自己の自由意思に従い、罷免を可とする投票か、又は否とする投票か二者いずれか一の投票をなすべきであるが、しかし棄権することもできるとすべきは当然である。この投票方法は簡明で条理と常識に叶い寧ろ解職制度に普通な方法といえる。地方自治法施行規則(昭和二十二年五月三日号外内務省令第二十九号)第一条別記様式の解職投票がこの方式をとつているのは合理的である。
かような訳であるから、罷免の可否が判らない審査人のためにその意思の発表方法として判らない旨の意思表示を特に投票の形でさせる立法は必要でもなく意味もない。
当裁判所は、「特に裁判官を罷免しようという何らかの理由を持たない者は罷免した方がよいか悪いかわからない者を含み総て記載欄に記載のない投票を投ずべきものである。」という考をとらない。これは棄権したい審査人を含めてはいえることではない。
B (罷免の可否が判らない審査人)
原告らは罷免の可否が判らない審査人ということをいい、これに罷免を可とする投票でもなく罷免を可としない投票でもない第三種の投票をさせるべきだと主張する。
よつて罷免の可否不明の審査人ということについて考えてみよう。
思うに国民審査はまだ国民になじまない制度であり、又審査に付される裁判官の人物、能力、識見、業績などが国民の間に十分に知れわたらない傾向があるなどの理由のため、審査人中には、罷免の可否について十分に判断することができず、よく判らないとか、確たる意見がないとかいう考の者が沢山混在していることは十分に考えられるところである。
しかし、それだからといつて、原告らが(その一)(三)(四)において主張するように、審査人が罷免を可とするときは投票用紙に×印を、罷免を不可とするときは○印を、罷免の可否が判らないときは少なくとも何らの記載をしないで投函するというような投票方法をとらない立法は違憲だということはいえない。このことについては既に(その一)(三)(1) (3) において述べたし、次にも論ずるつもりである。
思うに審査法が原告ら主張のような右の×印と○印を記載する方法をとらなかつたのは、この方法によれば罷免の可否について十分に判らない沢山の審査人が裁判官の適任かどうかについて判ろうともせずまた熟考もせずにみだりに何らの記載をしないで棄権する情勢を誘致する虞なしとしないからであり、もしそうなれば、国民の総意が国民審査に表明せられ難くなり、国民の裁判ないし国政に対する関心は薄らぐ反面、審査人中の少数の一派の投票が審査の総結果を支配し、場合によつてはしばしば最高裁判所裁判官の更迭を来たし、ひいて裁判官の地位の安固を害する弊が生ずるかも知れないからであると思われる。憲法によれば審査の投票には罷免投票と信任投票との二種しかない(その一(三)(1) (3) (5) )から、現行審査法がこの二種の投票だけを規定し、その中信任投票の方式は記載欄に何らの記載をしないで投函すべきものとする一方、棄権を認めていると解するのは簡明で合理合憲のことである。もつとも現行法の方式によれば信任投票は罷免投票と違つて何も書かなくてよいだけ投票しやすい嫌いがないでもないが、これは罷免投票が現に裁判官の地位にある人を現状を不利益に変更して罷免させようとするものであるからその意思表示を明確にする必要上妥当な方法であり、それは投票における意思表示の自由を制限したものとまではいえない。
さて、「罷免の可否が判らない審査人」という観念については、なお少しく分析検討する必要がある。先ず広く罷免の可否が判らない審査人という中には熟考の末結局罷免投票か信任投票かをするに至る者と、熟考してもあくまで罷免の可否が判らない者との二種があると一応考えられるが、本当の意味で罷免の可否が判らない者とは後者だけを指すのである。(そしてこの後者に至つては寧ろ少数かも知れない。)ところで、最高裁判所およびその裁判官がいかなるものであるべきか、又、具体的に審査に付されている裁判官がいかなる人格、能力の人であるかについて全然判らない審査人でも、例えば民選で就任したのでない裁判官、特定政党内閣で任命されたのでない裁判官、特定の信教を持たない裁判官、もしくは特定の階級又は地域の出身でない裁判官は罷免を可とするというような意見を持つ者は罷免の可否が判つている審査人の部類に入るこというまでもない。すなわち、罷免の可否が判らないというのは狭い意味で裁判官の適任かどうかが判らないという意味ではなく、結局、罷免投票をすべきか信任投票をすべきかが判らないという意味でなければならない。更に、「自分は当該裁判官が適任かどうか判らない、自分が適任として信任できない裁判官は罷免される方がよい。」と考え、又は、反対に、「自分は当該裁判官が適任かどうか判らない、ということは裁判官を罷免すべき理由を発見しないということであるから罷免されなくても異議はない。」と考える審査人も共に罷免の可否が判つている審査人の部類に属する。又「自分は判らないから何某又は自分の属する団体、党派の役員の意見とおりに投票しよう。」と考えるような審査人も罷免の可否が判つている審査人として本問題の場合には考えなければならない。更に極端な例を挙げるならば、何らかの迷信などから「自分は裁判官が適任かどうか判らないから、自分は投票用紙に連記せられた順序に従い最初の裁判官何名については信任投票をし、残りの裁判官については罷免投票をしよう。」と考える審査人も罷免の可否が判つている審査人に属する。かく考えて来ると罷免の可否について理由のいかんを問わず罷免か信任かの投票をする意思を持つている審査人は罷免の可否が判らない者とはいえない。
すなわち、罷免の可否が判らない審査人とは理由のいかんを問わず罷免又は信任の投票をする意思を持たない者を指すのである(前述その一(三)(3) (い)及び(5) 参照)。彼は罷免投票をも信任投票をもしないであろうし、しないことの自由は奪われてはならない。彼に第三種の「判らない」投票をさせて、これを罷免投票に算入することは本人の意思に反し、又、これを信任投票に算入することも彼がわざわざ信任投票を避けた意思にも反する。可否不明の審査人のために可否不明の旨の意思表示を第三種の投票の形でさせる立法は意味がないこと前段Aに述べたとおりである。厳正な意味で「罷免の可否が判らない審査人」とは罷免の可否を投票によつて決定すべき国民審査において、罷免の可否が判らないため、もしくは政治的、道徳的その他の理由から、可否いずれの投票をもしようとしない者であるから、結局棄権を欲する者をいうと結論せざるを得ない。
かような審査人には棄権の自由を残しておけばよいのである。
だから国民審査の方法についての立法としては、審査人が自由に罷免投票か信任投票か又は棄権ができるような方法をとることが必要であり且つこれをもつて足るのである。罷免投票と信任投票との二種の投票をさせる以上、審査の決定のためには「判らない」旨の投票は不必要であり、たとえこれをさせてもこれは罷免投票からも信任投票からも除外されなければならない。
ここで前述(その一(三)(5) )の一説について重ねて説明しておく。
右の説は「罷免する方がいいか悪いかわからない者は積極的に「罷免を可とする」という意思を持たないこと勿論だから、かかる者の投票に対し「罷免を可とするものではない」との効果を発生せしめることは何等意思に反する効果を発生せしめるものではない。」という。この説にいわゆる「罷免する方がいいか悪いかわからない者」とは「罷免する方がいいか悪いかわからないが裁判官が在任することに異議がないと思う者」を意味する限りこの説は正当である。実際審査人の中にかような意味での「判らない者」が多数いることは十分に考えられる。
しかし、このような「判らない者」は信任投票者の部類に属するのであるから、これは信任投票をしようと思う者として扱えばよいので問題はない。問題とされなければならないのは、右に述べたように、単に「罷免の可否がわからない者」ではなくして「罷免の可否がわからない」ために結局棄権したいと思う者及び政治的、道徳的その他の理由から棄権したいと思う者」である。換言すれば、問題になるのは「罷免の可否が判らない」と否とを問わず結局棄権しようと思う者に限定せられる。
ここではわれわれは「罷免の可否が判らない者」といつてもそれは最早や少しも罷免反対の意思も罷免賛成の意思も持たない者を指すのであることを忘れてはならない。さて、この問題に対して、右の説は次のように読みかえられることになる。すなわち、「棄権したいと思う者は積極的に「罷免を可とする」という意思を持たないこと勿論だから、かかる者の投票に対し「罷免を可とするものではない」との効果を発生せしめることは何等意思に反する効果を発生せしめるものではない。」ということになる。
この説に従えば、例えば、審査公報に「裁判官の罷免を可とするか可としないかが判らないため棄権しようと思う審査人もやはり投票用紙の記載欄に何らの記載をしないで投票して下さい。」という記事を掲載して審査人に周知せしめても不法がなく、審査は有効だということになる。
この説は棄権(不投票)は信任投票であるという背理の基礎の上に立つて、実質上の棄権票に対し本人の意思に反して信任投票と同一の効果を付与し、又、棄権したいと思う審査人が場合により棄権の自由を失うような投票方法を規定する立法を是認する説であつて賛成し難い。一体、棄権したい者に棄権する自由をなくして投票させそれを裁判官の罷免に反対する投票として計上し審査の総結果を決定する仕組は、審査の結果裁判官の罷免が否決された場合にも、この審査の決定は「罷免を可としない」投票の中に信任投票と実質的に棄権の意思でなされた投票との二種が含まれていてそれらがすべて罷免に反対する効果を持つこととされた背理の所産であり、そして実質的棄権投票は棄権する方法がないことの結果であり、従つてこの決定は実は実質的棄権票を多数に含有しているかも知れず、それは審査の結果に異動を及ぼす程度のものであるかも知れないという欠陥を投票の仕組そのものに内蔵するところのものである。すなわちこの審査決定は、もし棄権を許したならば、実質的棄権の信任投票の総数が審査の結果を逆転させたであろうという場合(例えば、罷免投票四〇パーセント、実質的信任投票三五パーセント、実質的棄権の信任投票二五パーセントの場合)や、実質的棄権票が百分の九十九を超えていて審査決定が国民の総意の表明たる実を備えないという意味で裁判官罷免の効果を生ずるに足らないとせられるという極端な場合(審査法第三十二条但書参照)であるかも知れないという欠陥を常に持つものである。かくては折角の審査の決定も民意をありのままに明確に表明しない。価値と権威の乏しいものとなるのである(前述その一(三)(1) (丁)、同(5) 末段参照)。
しかし、棄権の性質、棄権の自由及び現行審査法の下でも棄権の方法は常にあることを考えるならば、審査法はかような不合理な投票及び審査の仕組を規定しているものと解すべきではない、審査法は審査人が自己の自由な選択に従つて罷免投票か信任投票か又は棄権かをできるようにし、二種の投票方法を定め、審査人がいずれかの投票をしたときは投票者の欲したとおりの効果を生ずるように規定しているのである、という当裁判所の解釈に到達するのである。
右の説によるならば、審査に付されている裁判官が二人の場合にその全員について棄権はできるが二人の中の一人について信任投票をし他の一人について棄権することは不可能となりこの場合には棄権の自由は失われるという解釈となる。しからば連記投票制をやめて裁判官一人一票制立法(その一(三)(3) (い)参照)をとるか、もしくは当裁判所のように連記投票制の下に各欄の独立性(その一(三)(2) 参照)に着眼し各欄独立に棄権できるという解釈に到達するかするのでなければ、現行審査法の連記投票制の規定そのものが違憲不合理だという結論になることは避けられないと断ぜざるを得ない。
C (罷免の可否が判らない審査人の意思発表方法)
罷免の可否が判らない審査人で問題となるものは、当裁判所の見解では、(その一)(三)(5) 及び前段Bで述べたように、棄権しようとする審査人に外ならないから、審査法としてはこの審査人に自由に棄権できる方法を残しておけば違憲ではなく、又現に審査法では常にその方法があるのである。これは(その一)(三)(4) などで述べたとおりである。なお棄権とは投票しないことであるから意思表示をしてでもできるし投票用紙の不投函というような事実上の不作為によつてもできるこというまでもない。審査法は棄権の方法を明文をもつて定めていないがこれは棄権防止上適当なことであり、同法の解釈上常に棄権の方法はあるのであるから、同法はその発表方法を定める規定を欠いているとはいえない。
実際の場合に、罷免の可否が判らない審査人はどうしたらよいのであろうか。それは前段Aに述べたとおり、意見がないとか、判らないとかいう意味が(一)、もし、「自分は当該裁判官が適任かどうか判らない、その判らない裁判官を在任させることはできない。」という意味ならば、彼は罷免投票をなすべきである。(二)、もし「自分は裁判官が適任かどうか判らない。罷免させるべき理由を発見しないから在任させても異議はない。」という意味ならば、彼は信任投票をなすべきである。(三)、更に、「罷免の可否が判らないからこれについての意見を示したくない。」という意味ならば、彼は棄権すればよいのである。結局、棄権の自由がある限り、審査法が罷免の可否不明の審査人に対しその意思の発表方法を定めていないとはいえないのである。従つて、審査法の投票用紙の様式、投票の方式並びに投票の効力について定めた諸規定を憲法の条規に反する無効のものということはできない。
2 (「罷免を可とする裁判官についてのみ積極的表示方法を定め、罷免を可としない裁判官とその可否不明なる裁判官についてはこれを定めず無記載の投票方式を採用したのは投票の本質をあやまり、国民の公務員罷免権の行使を不当に制限したものである。少なくとも罷免を可とするものは×印、罷免を可としないものは○印を記載するというように可否を明白に表示してこそ投票の本質にもかなうのである。」との論旨について。)
憲法によれば審査において要求せられ、いずれが多いかを比較せられるべき投票は罷免を可とする投票と罷免を不可とする投票の二種しかないこと、憲法の下での投票の方法としては所論のように罷免を可とするものは×印、罷免を不可とするものは○印を投票用紙に記載するという方法を用いる立法をしてもよいことは前に述べた(その一(三)1A及びその一(三)(3) (ろ))。
しかし、投票に二種しかない場合には、法律で投票用紙に記号記載欄を設け審査人が罷免を可とするときは×を記載し、罷免を不可とするときは何も記載しないでこれを投函すべきものと定めるならば、何も記載してない投票は罷免を不可とするものであることが当然明白であるから、かく定めてもよい訳である。
審査法においては審査人が投票用紙に何らの記載をしないで投票用紙を投函するときはその投票は罷免に反対する効果を持つことを明定し且つその趣旨については審査人に周知せしめるべく周到の用意がなされている制度の下では審査人は何らの記載をしない投票をするときは罷免に反対する効果を生ずることを知つて投票したものとして扱つてよいのである。けだし投票の趣旨は投票に現われた意思表示の外形を見て決する外ないからであつてさもなければ投票と審査の効力に関する法律関係の安固が害されるからである。すなわち、法律で記載欄に何らの記載をしない投票は信任投票としての効果を持つことを定めている場合には何らの記載のない投票は法律上当然信任投票となるのである。このことは×印の記載ある投票は罷免投票としての効果を持つことを定める法律の下で×印投票が罷免投票とされるのと同理である(前述その一(三)(3) (ろ)及び同(三)(5) 参照)。
原告らは無記載の投票方式は何らの意思表示にはならないというが、およそ投票の方式は投票用紙に必ずしも文字又は記号を記載して投函する方法でなければならないと限るべき訳もないから、右の問題のような場合には、特定の欄に何らの記載をしないで投函するときは当然罷免を不可とする意思表示が立派になされたということになるのである。これがため投票の本質をあやまり国民の公務員罷免権の行使を不当に制限したものであるということはできない。いうまでもなく、この場合記号記載欄に何らの記載をしないで投票用紙を投函することは審査法が予めこれを信任投票とすることを規定しているのであるから、これは無効の白票ではなく、法定の方式に従つた信任投票なのである。
これは法律が罷免投票の方式として×印、信任投票の方式として○印を記載すべきことを定めている立法の場合に、何らの記載をしないで投じた白票と異り無効となるべきものではないのである(その一(三)(3) (ろ)(は)以下参照)。
3 (「連記投票の方式は投票の強制となる。」との論旨について。)
審査法は、審査に付される裁判官が二人以上ある場合に連記投票の方式をとつている(審査法第十四条、第十五条、第十六条)。従つてもし裁判官中の特定の一人又は数人について棄権する方法がないときは、審査人が一部の裁判官について投票し、他について棄権しようと欲してもできないこととなり、その限りにおいて投票を強制するものということができる(前述その一(三)(5) 1B参照)。被告は、「たとえ連記であつても投票は一票である、従つて一票中の或部分を特に棄権するというが如きは条理上認められるところでなく、審査法がこのことについて何ら規定していないことは当然である。」と主張するが、審査と投票とは裁判官一人一人について行われ、罷免の可否を決定する投票の多寡は各裁判官一人一人について決定せらるべき性質のものであるから(前述その一(三)(2) 参照)、たとえ連記投票が一枚の投票用紙を用いて一括して行われる意味では一票であるとしても特定の一人の裁判官についての棄権は許されなければならない。もし一部の裁判官についての棄権が許されないとするならば、審査人は、一部の裁判官について投票を欲する限り他の裁判官についても投票せざるをえないことになり、しかも他事を記載すれば投票全体が無効となるため(審査法第二十二条)、止むを得ず他の裁判官について何らの記載をしないで投票したとすれば、それが審査人の意思に反して罷免を可としない投票に算入せられることになり、由由しき結果を生ずるにいたるのである(前述その一(三)(4) (5) 1B参照)。総じて投票は、ひとり国民審査の投票に限らず、投票者の自由に表示した意思に基くことによつて、初めてその意義を持つのであつて、かくしてこそ国民の総意が投票の結果の上に適正に表明せられるものということができるのである(前述その一(三)(5) 参照)。
或いは、「国民審査の制度は解職の制度であるから、審査に当つては、積極的に罷免を可とする投票が投票総数の過半数を占めるか否かを知ればよいのである。そして連記投票の場合、一部の裁判官について棄権しようと思う者は結局その裁判官について積極的に罷免を可とする意思を有する者でないということができるから、この者がその裁判官について投票せざるを得ないことになつても、国民審査の本質に照らし投票の強制と目すべきものでない。」と論ずる者があるかも知れないが、罷免の可否について比較の標準を有権者の総数にとつている場合ならば格別、投票の総数にとつているのであるから、当然罷免を可とする投票と可としない投票の二種類にわかれることとなるべく、右の論は容認することができない。
又、「投票をすることは国民の義務であるから、この場合投票の強制となるような事象を生じても、これがため国民の思想及び良心の自由並びに表現の自由を侵したことにならない。」という者もあるかも知れないが、もしそうだとすれば、全部の裁判官についての棄権も許されない筈であつて、一部の棄権のみ許されないというのは筋のとおらない話であるばかりでなく、投票する義務があるというのは、審査人の意思を無視するものであつて、不合理である。棄権は裁判官の全部についても一部についても自由でなければならない(前述その一(三)(5) 参照)。
このように連記投票の方式をとつた場合に、審査法上一部の裁判官についての棄権が許されること及びその方法についての当裁判所の見解については既に(その一(三)(4) )で述べたところである。
審査法は当裁判所の見解による棄権の方法について何ら明文を設けていないが、それは結局憲法第二十一条、第十五条第一項、審査法第十四条ないし第十六条、第三十二条及び第二十二条の解釈上必然的に許されるところであるから、審査法がその明文を設けていないからといつて、他の法律が一般に棄権の自由について何ら明定していないことと同様、法の不備ではなく、連記投票の場合でも一部の棄権の方法は立派にあるのであるから、審査法が連記投票の方式をとつたことを以て投票を強制するものであるとする原告らの非難は当らない(前述その一(三)(3) (4) (5) )。
叙上のとおりであつて、国民審査の投票用紙の様式、投票の方式並びに効力に関する審査法の諸規定は、少しも憲法の条規に反する点がなく有効であつて、これに反する原告らの主張は、結局審査法の立法技術を拙劣として論難するにすぎないので、理由なしとしてこれを排斥する。
(四) (罷免の可否が判らない審査人がした無記載投票について。)
次に原告らの三の(その一)(四)の主張について判断する。
憲法によれば国民審査の投票には罷免を可とする投票と罷免を不可とする投票との二種類だけしかあるべきでない(前述その一(三)(3) 1A参照)。罷免の可否が判らない審査人とは厳密にいえば棄権したいと思う審査人の意味に外ならない(前述その一(三)1B参照)。しからば彼には何時でも棄権できるようにすることが必要であるがこれをもつて足るのであつて(前述その一(三)(4) (5) 参照)、別に可否不明の投票をさせる必要はない(前述その一(三)(3) 1AB参照)。可否が判らない審査人とは棄権したいと思う審査人の意味である以上彼のした投票が信任投票として計上せられるようなことがあつてはならない(前述その一(三)1B参照)。
右は憲法と条理との要求であるから審査法がこれらの要求箇条に違反すれば憲法違反となる。従つて、罷免の可否が判らないために棄権を欲する審査人の棄権の途を杜絶して投票させその投票を裁判官の罷免に反対する投票として扱うような立法は違憲である(前述その一(三)1B参照)。しかし当裁判所の見解では、審査法はいかなる場合でも棄権の方法があるようになつているため審査人は自己の自由な選択に従つて罷免投票又は信任投票或いは棄権をすることができるから審査法は違憲ではない。このような審査法の下でこそ或審査人が記載欄に何らの記載をしないで投票したとすれば、彼が棄権する意思も罷免投票をする意思も持たず、自己の自由意思に従つて在任に異議のないという意味の投票をしたことが判るのである。かように投票に表示せられたところに従つて投票者の意思を解釈し得るのも投票と棄権の自由を認めるから(前述その一(三)(5) 2参照)である。
以上の事柄については既に述べたとおりである。
国民審査において要求せられる投票は罷免を可とする投票と可としない投票である。そして両者を比較することにより罷免の可否が決定せられるのである。
審査法は、この二種の投票についてその意思の表示方法を定め、罷免を可とする裁判官については投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に×の記号を記載し、罷免を可としない裁判官については投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に何らの記載をしないこととしたのである。従つて審査法が審査の結果を判定するに当り、全有効投票を罷免を可とする投票と罷免を可としない投票の二種類に分つこととし×の記号のないものはすべて罷免を可としない投票に算入することにした(審査法第三十二条)のは、投票用紙に表示せられた審査人の意思に従つたもので、当然のことである。
投票用紙に表示せられたところが審査人の意思と違つていたというならば、それは錯誤の問題であり、意思と表示との不一致の問題である。しかも棄権の自由は許されており罷免の可否について意思を発表したくない審査人は、全部の裁判官に対すると一部の裁判官に対するとを問わず、その方法はあつたのである。真意と違つた投票は実質的には無効投票であるかも知れないが、審査の結果の判定にあたつては投票の秘密保持の必要や、審査人数と投票数とが余りに多数であることのため多数投票者の真意を確知することが不可能であるから、又これを調査して投票の効力を覆えし得るものとすることは投票によつて生ずる法律関係の安固を害するから、国民の一般的投票である国民審査の投票については、許されるべきではないので(前述その一(三)(5) 末段参照)、結局、投票に表示せられた意思に従う外ないのである。例えば罷免を可としない意思を持ちながら誤まつて×の記号の記載した場合その投票は罷免を可とする投票に算入せられるのである。実際問題として、今次の国民審査では罷免の可否について意見の発表をしたくないと考えながら投票用紙の記載欄に何らの記載をしないで投票した者が多数あつたかも知れないが、そのことや、殊に、罷免の可否が判らない審査人が絶対多数であつたことは右の理由で調査の方法がなく、知る由もない。従つて審査法のとつた投票の方式をもつて投票者の意思を曲げて解釈し且つ本人の欲しない法律上の効果を付与したものということはできないのである。何故ならば、審査法は投票に表示せられた投票者の意思に従い、それに相応する効果を付与しているにすぎないからである。審査法第三十二条は少しも憲法第十九条、第二十一条に違反するものでない。
以上説示のとおり、審査法は全体としては固より原告らの挙示する個個の規定もまた、何ら憲法の条規に反するものでないから、有効であることもちろんである。従つて右審査法に基いて行われた今次の国民審査は、それだけの理由ではこれを無効とすべきいわれはない。
(其の二)(事実上の主張について。)
(一) (投票強制)
まず第一に、原告らは、「今回の国民審査にあたつては投票強制が行われた。」と主張する。その具体的事実として、「今回の国民審査は、総選挙のための機構と設備とを利用して実施せられた結果、総選挙の投票所と国民審査の投票所とは同じ場所であつて、その入口も出口も同じであり、且つ順路も一定して戻ることを許さないように設備してあり、右投票所に出頭した有権者(選挙人であり且つ審査人である者)に対しては、係員は選挙の投票用紙と審査の投票用紙とを一緒に交付し、その持ち帰りを禁止したので、選挙のため投票所に出頭した有権者は、その意思に反して国民審査の投票をもしなければならないことになつた。これは心理的に投票を強制するものである。」というのである。そして、選挙の投票所と審査の投票所とが同じ場所であつて、その入口も出口も同じであつたこと、並びに投票用紙の持ち帰りを禁止したことは、被告においても認めるところである。
しかしながら、選挙の投票所と審査の投票所とが同じ場所であることは、審査法第十三条が「審査の投票は衆議院議員総選挙の投票所において、その投票と同時にこれを行う。」と規定したことの当然の結果である。問題は、その投票所の設備が果して心理的に投票を強制するような風になつていたかどうかであるが、単に入口と出口が各一つであつて入口から出口にいたる順路が一定していたとしても、それだけでは必然的に選挙の投票と審査の投票は別別になされ得ない理由とはならない、一方の有効投票をして他方の有効投票をしないことの自由が物理的にも心理的にも失われる理由とはならない。
有権者は投票所に入つてから出るまでの間法律上も事実上も、或いは審査の投票を棄権し又は無効投票を投ずることができたのであるから、出入口の同一ということ自体のために心理的に投票が強制せられるということはできないと思う。又、選挙のために投票所に出頭した有権者に対し選挙の投票用紙の外審査の投票用紙を交付することは(同時交付であるか順次交付であるか当事者間に争があるが、これは判定に影響を及ぼすような重要な事項でない。)有権者が選挙の投票のためだけでなく審査の投票をするためにも出頭したものと見て両方の投票用紙を受け取る権利のある彼に両方の投票用紙を提供することは寧ろ当り前の管理事務の扱い方といつてよく、これは審査の投票をさせるに便利な結果になつてもそれは審査を総選挙の際行うものとしてなるべく多数の投票を得ようとした憲法第七十九条、審査法第十三条の精神(前述その一(二)参照)に適いこそすれ投票用紙の受領拒絶又は返還は有権者の自由である以上、右の提供をすることは直ちに投票用紙を押しつけて投票を強制するものとはいえない。投票用紙の持ち帰りの禁止にいたつては、これは投票用紙公給主義の原則からいつても当然のことであり、持ち帰り投票用紙を他人に乱用させ二重投票や投票用紙のたらいまわしをさせるような弊害を予防する別の理由から正当とされなければならないのである。これを以て投票強制の手段であると論ずるが如きは論外である。
要するに、原告ら主張の事実は、これを各別にみても又これを総合してみても、到底投票強制の方法ないし手段とみることはできない。当裁判所は、原告らの申出により多数の証人を取り調べ、主として東京都内における各投票所の設備の実態、審査人の投票の動機、その心理経過等の把握につとめたのであるが、投票強制となるような事実はついにこれを発見することができなかつた。ただ証人水谷保久、楪米市のように、棄権する方法がなかつたから投票したと証言する者もあつたが、その具体的事情は明らかでなく、にわかに措信できない。審査事務管理当局が故意に投票用紙の受領拒絶又は返還は審査人の自由であることや棄権又は無効投票もできることを審査人が知らないのに乗じて投票を強制したような事実があつたことは口頭弁論に顕われた証拠によつては認め難い。なお、全国的にみて、今次の総選挙と国民審査において、前者の投票総数は三千五百七十四万九千七百二十三票であり、後者の投票総数は三千五百六十六万三千九百三十九票であつて、両者符合せず、後者の方が八万五千七百八十四票少ないことは、成立に争いない甲第八号証によつて明らかなところであつて、このことは選挙のため投票所に出頭した選挙人が必ずしも全部国民審査の有効投票をしたものでないことを物語るものであつて、原告らのいうような投票強制のなかつたことの一証左となすことができるであろう。
なお、原告らは、審査の係員において投票強制をした事実もあつたと主張するが、右事実を認めるに足る的確な証拠はない。
(二) (投票の秘密の侵害)
次に原告らは、「今回の国民審査においては、投票の秘密が侵された。」と主張する。なる程罷免を可としない投票については、投票用紙の記号記載欄に何らの記載をしないでこれを投票箱に入れるという投票の方式をとつている(審査法第十五条、第十六条)のであるから、罷免を可としない投票をしようとする審査人は、格別記載台に立ち寄る必要がなく、従つて仔細に審査人の行動を観察するときは、少なくとも記載台に立ち寄らないでそのまま投票した審査人は多分罷免を可としない投票をしたらしいという事実をうかがうことができるが、しかし、投票記載台に立ち寄つた審査人でも何らの記載をせず、又は他事を記載することができ、又、どの裁判官について×の記号を記載したかは判らないし、一方、記載台に立ち寄らず直接投票箱に行つて投票した審査人でも秘かに×の記号を記載し又は他事を記載することが不可能ではないのであるから、審査法第十五条、第十六条の定めたとおりの施設と方法で投票を行つたとしてもそれで投票の秘密が侵されたものとはいい難い。
今次の審査において、何処かの投票所における投票の方法施設が法定の限界を超えて投票の秘密を侵す違法があつた事跡は原告らの証拠によつては到底認めることができない。この点に関する原告らの主張は理由がない。
(三) (罷免意思の有無を表示しない投票)
最後に、原告らは、「今回の国民審査においては、罷免を可としない投票として算入せられた投票中に、罷免の意思の有無を表示しない投票が多数あつた。」と主張する。しかしながら、これらの投票がその記号記載欄に何らの記載をしていないものであつたことは、原告らの認めるところであるから、既に(その一(三)2)で述べた理由により審査法第十五条、第十六条、第三十二条の趣旨に従いこれが罷免を可としない投票に算入せられたことは当然であつて、その間何らの違法はない。
実際問題として、これらの投票中には、真実は罷免の可否について意見を発表したいとも思わないが棄権の方法がないと誤信して投票したものがあつたかも知れないが、本件証拠によつてはこの事実は証明せられないのみならず、前に(その一(三)(5) 2)でも述べたとおり、投票の効果は投票に表示せられた投票者の表示意思に従うべく、その内心的意思を一一探究詮索することは投票によつて生じた法律関係の安固のために許されないところであるから、たとえ本件の証拠調において、投票者の意思と表示の一致を欠いた場合のあることが証明せられたとしてもそのことは、本件審査の結果を判定するについてしんしやくすべきでない。
(四) (審査の結果に対する影響)
このように、原告らの三の(その二)(一)、(二)、(三)の事実上の主張はすべて理由がないが、仮りに今回の国民審査において原告らの指摘しているような事実上の無効原因が多少存在していたとしても、審査の結果が被告が第二(その二)(四)で主張するとおりであつたことは成立に争いのない甲第八号証により明らかであり、原告らの証拠によつては、これらの無効原因の存在が右審査の結果に異動を及ぼす虞のあるものとは到底認めることができない。そして裁判所は、審査法第三十七条により、このような虞のある場合でなければ審査の全部又は一部の無効の判決をすることができないのであるから、原告らの右主張はこの点からいつても理由がないものといわなければならない。
このように原告らが本訴において無効の理由として主張するところは、法律上の主張たると事実上の主張たるとを問わずすべて理由がないので、原告らの本訴請求はいずれも理由なしとして棄却すべく、よつて民事訴訟法第八十九条、第九十三条を適用して主文のとおり判決した。
(裁判長裁判官 垂水克已 裁判官 大江保直 裁判官 柳川昌勝)